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2007/08/10

なぜ神を礼拝しなければならないのか

 神は、すべての信仰者がご自分を礼拝することを求めておられる。しかし私たちは、なぜ神を礼拝するべきなのだろうか。神はなぜ、私たちにご自分を礼拝することを要求されるのだろうか。もしそのような疑問が湧いてくるならば、私たちの思いは、すでに自分主体なものへと傾き始めているのである。というのは、そのような考えは、例えば一人の人が多くの人の上に君臨するようなイメージで礼拝を捉えているからである。
 人が民衆の上に君臨するのは、権力を奮うためである。しかし、礼拝は、言わば最深の意味での驚嘆であり、神が権力を行使されるのとは違う。返って神は、人がご自分を礼拝するようになるのを待っておられるのである。そして、人が神を礼拝するとき、神は人から何物も徴収されることはない。返って神は、礼拝において人にご自身を与えられるのである。神が人にご自身を与えられるとは、どういうことか。それは、ご自身の義と愛の完全さを人に啓示され、人はそのあまりの素晴らしさゆえに、神を褒めたたえずにはいられなくなるのである。
 それでは、礼拝の要素とはどのようなものか。それは、まず準備であり、環境の整備である。かつてイスラエルが神を礼拝するための幕屋や神殿を作ったように、私たちも賛美と祈りにより、その場所に神の臨在を願い求めるのであり、そのときは私たち自身が神の宮となるのである。そのようにして条件が整うと、神がその場所に臨在されるということが起こる。そして神が臨在されるなら、そこに二つのことが起こる。一つは裁きであり、もう一つは赦しである。まず神の聖さの前に、私たちの罪深さが自覚され、そのようなものが神の前に出ていることの驚きと畏れが人の心を圧倒する。そこで私たちは、神から与えられた購いの小羊を心に掲げ、十字架のイエス・キリストを見上げるのである。すると、神の元から大いなる赦しと平安が湧き上がって私たちの心を満たし、自分の罪が赦されたことを知るのだ。私たちは神に感謝し、イエスの御名を告白し、その購いの力を讃美する。これは、私たちがこの地上にいる間、常に繰り返される。なぜなら、それは、私たちが神の元から迷い出てきて、再び神の元へ帰ること、すなわち「出ずると入る」とを示しており、この2つのことは、永遠の世界、つまり天においては1つのことなのだから。そしてそれはまた、聖書全体が言っていることなのである。

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