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2007/08/07

偽りを言う霊

列王記上 第22章

 三年間、アラムとイスラエルの間に戦いがなかった。しかし、たとえ平和の中にいても、人の心は常に戦っているものである。神が人を造られたとき、人の心に戦う性質を与えられ、「地を従わせよ」と言われたから。しかし、平和の中の戦いほど醜いものはない。それは、偽りの戦いなのだ。
 このときも、現代と同様に、世には不正が満ち、王に取り入るものが手厚い待遇を受けていたのだろう。王の元には、400人の預言者がいて、いずれも王に都合の良い託宣を述べ、それによって王は国を治めていたのであった。
 しかし、イスラエルのような広い領土と民の心を治め続けるには、戦いにより、結束を高めることがときに必要だったのである。そこで、そのころ姻戚関係を結んでいたユダの王ヨシャパテが訪ねてきたのをきっかけに、アハブ王は、自分の苦手な戦いを企画し、ヨシャパテに支援を要請した。ヨシャパテは快く承諾したが、彼は神に忠実な勇者であったので、まず主の言葉を求めるよう助言した。アハブは、自分の元にいた400人に預言させたが、ヨシャパテは彼らの堕落を見抜いて、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と言った。アハブは、自分に組みしようとしない預言者ミカヤの名を挙げ、ヨシャパテの指示により不承不承に彼を連れて来させた。ミカヤは真実に主の御心のみを求める預言者であったので、アハブに主から与えられた敗北の預言を告げた。
 神は、かくこの世界を裁かれる。すなわち、偽る者の心には偽りの霊を送り、正しい者の心には正しい霊を送られる。彼らが共に預言するとき、正しい者は、正しい霊が語る言葉を聞き、偽る者は、偽りの霊が語る言葉を聞き入れるのである。
 アハブ王は、かつてエリヤが預言したように、戦いに倒れ、彼の血を犬たちがなめ、その血を洗った水で遊女たちが身を洗った。

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目の見えない人の癒し

ヨハネの福音書(第9章)

 イエスと一行が道を歩いていると、生まれつき目の見えない人に出会った。すると弟子たちがイエスに訪ねた、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それとも両親ですか。」イエスは答えられた、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人の上に現されるためである」と。
 イエスは、超自然的な力により、その人の目を明けられた。彼は自分の身に奇跡を体験し、それによりイエスが人の子すなわち終末論的なメシアであることを信じた。しかし周りの者たちは、信じることができなかった。それは、彼らの信仰によれば、イエスの弟子たちもそう考えたように、その生まれつき目の見えなかった人は、その原因として、どこかに罪を持っているはずであり、そのような罪人の彼が、メシアを認識できるはずはないと思ったからであった。さらに、彼らが信じられなかったもう一つの原因は、イエス自身の行動にあった。イエスが彼を癒されたのは、安息日であったからである。
 ブルトマンによれば、これらのことは、神の元から輝き来たった真理の啓示としての「世の光」は、イエスという人において、当時どのように世に輝いていたのか、また今日、福音の宣教と共に、どのように世に輝いているのかということを示している。
 真理の光は、世を照らすために世に来た。しかしイエスは言われる、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と。それは、「自分には真理が見えている」と言う者は、真理が分からないままに取り残され、「自分は真理を知りませんでした」と言って謙遜に求める者に、それは啓示されるという意味である。ブルトマンによれば、イエスは真理としての唯一の光であり、彼以前には真理は啓示されておらず、すべての人が盲目であったからである。
 この真理は、どのようにして人々の心を照らすのか。それはイエスの言うように、「裁きの宣告」を通してである。どのような裁きなのか。それは、真理を知りたければ、彼を信じる必要があり、かつそれ以外に道はないということである。つまり、信じようとする者が、それに先だってこの福音の内容を自分の知識や経験に基づいて評価し、その結果、納得してそれを信じるというようなことは不可能であり、彼はまず無条件に信じなければならないのである。
 しかしこの逆説は、どのようにして福音で有り得るのか。それは、単に盲信を要求しているだけあり、人がそれを信じるか否かは、単に偶然の産物でしかあり得ないような決断の迫り方なのではないのか。ブルトマンの説く福音は、そのように冷たいものなのだろうか。一見そのように見えかもしれないが、実はそうではない。というのは、この真理の光が来る前には、世には真理の光は存在しなかったのであり、世の人々はそのような混沌とした状態の中で、道に迷っていたからである。もっとも、すでにモーセによって律法が与えられていたから、それを守ることにより人は神の前に議とされることができるはずであった。しかし実際には、そのような救いにおいて、神の前に義とされるに至った人は一人もいなかったのである。そして再び、そのこと、すなわち自分の罪深さ、つまり自分の目が真理を見ていないことを自覚する者のみがこの福音を受け取ることができるのである。しかし、自分の目が真理を見ていないことを告白しようとしない人、特に当時の律法学者、パリサイ人たちは、この福音を受け入れることができなかったのである。
 同様に今日においても、イエスを信じていない人は、まだ真理を知っていない。それゆえに、彼らは大いなる迷いの中にあるのであり、クリスチャン以外には、多少なりとも良いと言えるような人は存在しないのである。このことは重要である。なぜなら、もしこのことが譲歩されるようなことがあれば、そこには、真実な意味での福音宣教はあり得ないからである。
 私たちが、世間の人々の中に、どこか立派で学識もあり、人々から慕われている地位の高い人を認める場合でも、キリストとの関係で、ほんの少しでもその人を良く評価するようなことがあれば、それは、福音宣教に障害なのだ。なぜなら、彼は決して真理を知っていないのであり、いまだに大いなる迷いと悩みの中にいるはずだからである。たとえ彼が、どのような物質的豊かさや、学識の豊かさ、そして幸福な家庭や人間関係の中にあろうともである。
 私たちは、いつもこの真理を持ち続けなければならない。つまり、キリスト以外に真理はないということを。そして、キリストを信じていない人の心には、決して平安はないということを。彼らが外見上、どのように幸福そうに見えても、それは偽りであり、彼らは、速やかな救済を必要としているということを。だから、私たちは、彼らのために日々、祈り、とりなしをし、職場で社会で家庭で、彼らに救いがもたらされるように努める必要があるのだ。

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