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2007/08/05

アハブの敵

列王記上 第21章

 アハブ王は、自分の宮殿のそばに菜園を作りたかったが、そこはぶどう畑となっており、それを所有していたのは、イズレエル人ナボトであった。そこで、アハブはナボトにそのぶどう畑を譲ってくれるように頼んだが、ナボトは聞き入れなかった。そのことでアハブは機嫌を損ね、王宮に戻っても食事さえ取れなかった。それを不審に思ったイゼベルが彼から事情を聞き、アハブの名前で命令を出し、ナボトに対して策略を巡らして、彼を殺してしまった。アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。
 このアハブ王のようなタイプの人が現代にもいるように思う。自分からは人殺しをしないが、間接的に無慈悲な行いをする。ちょうどアハブがイゼベルによってナボトを殺したように。アハブの心にも、ナボトへの殺意はなかった。しかし、イゼベルがいとも簡単にナボトを殺してしまっても、彼には何の驚きもなく、次の日にいそいそとナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。実にそのように無感覚な状態に、人は成ることができるであり、現代に生きる私たちも、仕事や私生活における忙しさのあまり、他の人に対して無慈悲な行いをさせられる結果になっていないかどうか良く反省する必要があるだろう。
 アハブ王のような無感覚で間接的に無慈悲な人にとっては、彼が接するすべての人は、人格を持たない存在であるかのようである。彼の前には、どのような人も脅威ではなく、敵でもないのだ。しかし、そんなアハブ王に「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか」と本気で身構えさせた者がいた。それが神の人エリヤであった。完全に神の側に立つゆえに、この世をさえ憎む者、ただそのような人だけがアハブ王のような無感覚な人に、神を自覚させることができる。神を愛するゆえに、この世をさえ憎む人、そのような姿勢をどこにおいても、常に持ち続けられる人だけが、無感覚になった現代人の心に神を呼び覚ますことが可能なのである。
 エリヤの叱責に、アハブの渇いて無感覚になっていた心から、何かがほとばしり出たのであった。アハブは、エリヤの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。そのとき主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。」神は、現代の無感覚な人々に、福音を伝える器を捜し求めておられるのだと思う。エリヤのように、彼らの心の殻を打ち破り、彼らに自分の罪を認めさせ、神の前に粗布をまとわせることのできる器をである。

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小さな試練

列王記上 第20章

 イスラエルの王アハブほど、神の前に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼はその妻イゼベルに唆されたのであった。そして彼は、妻に対してだけでなく、すべてにおいてそのようであった。彼は、神とこの世を比べて、この世を選んだのであり、それは初代のイスラエル王ヤロブアムの犯した罪であり、偶像崇拝である。彼アハブは、罪深い者すべてを代表している。罪深い者とはどのような者か、それは、アハブのように神の前にいい加減で、この世に対してはっきりした行動をせず、自分に対しても神の前にはっきりした態度をとらない者である。そして、彼アハブには、そのことのどこが悪いのか分からなかったのであった。このアハブ王が犯し続けた罪、それは実は、私たちの中にもある「いい加減な信仰」なのである。私たちは、このことを聖書から自分のこととして読み取り、戦慄のうちに神の前に悔い改める必要があるのではないだろうか。
 神は、そのように熱くもなく冷たくもないアハブ王の元に、アラムの王ベン・ハダドから使者を遣わされ、彼を脅迫させられた。アハブ王は、その脅迫の真の意味を理解しなかった。彼は、すべてを自分に対するものと理解した。しかし彼は、イスラエルの王なのであり、彼の王権もイスラエルの民も国土も財産も、彼のものではなかったのである。しかし、アラムの王からの使者が再び来て、彼の家臣の財産まで奪うつもりであることを告げたとき、アハブは初めて不安になり、家臣たちに相談し、その意見を入れて、アラム王からの使者に拒否の応答をした。そのような対応を見て私たちが彼を「ちょっとばかりお人よしな王」くらいにしか思わないとしたら、それはすでに私たちの感覚、倫理観が神の前に曇らされてしまっているのである。ああ、今日でも、自分に与えられた財産や地位、妻、子供たちを自分の物のように思い、その環境の中で、まだ大丈夫と安穏と振舞っている信仰者がいるならば、彼は、このイスラエルの王アハブと同じなのである。
 アラムの王が大群を率いてアハブに宣戦布告したとき、見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『この大群のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」しかしアハブには、それは神の預言者の言葉ではなく、友だちの気の効いた忠告くらいにしか思われず、「誰を用いてそうなさるのか」と聞き返した。預言者は、これはアラムが神の民イスラエルに対して戦いを挑んでいるのであり、全イスラエルの戦いであることを告げると、彼はさらに「誰が戦いを始めるのか」と聞き返した。これはまさに、今日の生ぬるい信仰者、自分が主イエスの軍隊に属していることを忘れている信仰者の姿である。
 神は、イスラエルの前に海の砂のような多数のアラム軍を二度に渡って打ち破られた。しかしそれでもアハブ王は、そのことの真の意味を理解しなかった。先にアハブのところに遣わされた預言者が仲間の一人に、主の言葉に従って「わたしを打て」と命じたが、その仲間の預言者もアハブ王のような生ぬるい信仰を持っていて、神の言葉に聞き従わなかったので、獅子に出会い、殺されてしまった。彼はもう一人の預言者に「わたしを打て」と言ったところこの隣人は彼を打って傷を負わせた。このようなやり取りを私たちはなにか狂信者たちの喧嘩であるかのように受け取ってしまうかもしれない。しかし、ここで聖書が言っているのは、私たちに熱いか冷たいかであって欲しいということ。そして、もし私たちがアハブのように生温い信仰を持っているなら、万軍の主イエスは、私たちをその口から吐き出されるだろうということなのである。そして、神は主イエス・キリストの購いに免じて、このときのアハブに対するように、生温い私たちを時に寛大に扱われるが、また様々なことを通して、私たちを奮起させるために、私たちの心を乱されるような出来事をも起こされるのである。
 イスラエルの王は、預言者の言葉に機嫌を損ね、腹をたてて王宮に向かい、サマリアに帰って行った。

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