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2007/08/03

聖書には、間違えがないのか?

 クリスチャンの中には、「聖書は、誤りのない神の言葉である」と信じる人たちがいるかと思えば、聖書は、人が編集したもので、間違えだらけであるという人々もいる。現に紙に記され、誰でも手に取って調べられるところにある資料に対する意見が、どうしてこうも真っ向から対立しているのだろうか。しかし、この事実だけから考えれば、聖書は、それを見る人の見方によって、正しいとも間違っているとも見ることができるということなのだろう。
 私自身は、聖書は正しいと思っている。しかしこれは、一言一句正しいというのではなく、その言わんとしていることが正しいという意味である。実際、聖書の中には、自己矛盾を呈している所も少なくない。例えば、列王記と歴代誌の間でも、ある王が即位した年齢とか、人の数とか、種々の数量を対応させてみるといくつかの矛盾が散見される。そして、聖書が信頼できないという人は、そのように矛盾している記述の少なくともどちらかは、間違っているはずだと言うのである。しかしたとえ、記述された数量が異なるからと言って、それらが必ずしも異なる内容を記述しているとも言えないのではないだろうか。現代でも、同じ商品に異なる値段が付くのが常なのだから。つまり、数量の単位が変わってしまう問題や、法律の解釈等の問題、数え方、計り方、分類の基準の違いの問題等々、一言で言えば、その時々の文化的な違いの問題も無視できないのではないだろうか。
 また、新約聖書の中にも、例えばイエスが行ったとされる奇跡の内容にも記述上の違いが見られる。しかしもしイエスが、似ているが内容の異なる複数の奇跡を行ったということなら、それらは矛盾ではないことになる。マルコの福音書の第8章19、20節で、イエスはそのことを言っておられるようだし、要するに、聖書の記述上の矛盾は、その背景まで考慮に入れて判断する必要があると思うのだ。
 しかし、聖書が間違っていると言う意見でもっとも重要なものとして、その考えが根本から間違っているという意見があり、これは重大なことだと思う。例えば、神が6日間で天地を創造したとか、全宇宙はその創造から、まだ約6千年程度しか経過していないというようなことである。しかし、これも実際には完全に間違っているとは言えないと思うのだ。というのは、このブログのどこか他に書いたのだが、現在の世界は、それを観察するとき、それができてから何億年も何十億年も経っているとしか思えないのであるが、しかし、そのような何十億年も経て出来上がるような世界を神が6千年前に一気に創造したとしたらどうであろうか。たぶんこじ付けだと言われるだろうが、神が存在することが否定できない限り、その可能性をも完全に否定することはできないと思う。
 それにしても、たとえ百歩も千歩も譲って、聖書が正しいとしても、どうして神は、そのようにまどろっこしいことをされたのだろうか。それは、他の信仰的なことがらすべてについても言えることなのであるが、神がこの世界を裁かれるためである。神は、真理をどう見るか、それについてどう考えるかということを、あくまで人間の主体性に依存させて、人間自身、それも一人ひとりに自分で判断させたいのである。神にとって、このことこそが重要なことなのである。神は、人に自由意志をくださったのだから、それが制圧されないように最大限の配慮をされておられるのである。そして、それは同時に、神がこの世界を裁かれることを意図しておられるのである。この愛と裁き、これこそがキリスト教の本質であり、この片方が除かれるならば、キリスト教は成り立たない。イエス・キリストの福音もその均衡の中で述べ伝え、受け取られるのである。
 だから、この記事の結論を言おう。聖書は、正しい。しかし、正しくないかのように見えるよう意図されているところが随所にあり、それは、人間が自分一人ひとりでその信憑性を判断するためである。そして、それはそのまま、その人に下される裁きとなるのである。言葉を変えて言えば、聖書をキリスト教の信憑性を判断するための資料とすることはできない。神がそうされたのだ。また反対に、信仰者が自分の信仰に従い、聖書の記述内容を吟味することもできない。神がそのようにされたのだ。聖書と信仰、それはどちらが先というものでもなく、同じ位置づけのものなのだ。「言葉は人と成った」と記されているように、キリストは神の言葉であり、そして聖書は、書き記された神の言葉なのだから

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