« 2007年7月29日 | トップページ | 2007年8月3日 »

2007/07/31

悪魔の子

ヨハネの福音書(第8章続き)

 イエスはここで、ご自分を信じたユダヤ人たちに議論を仕掛け、最後には「悪魔の子」として激しく非難している。それは、彼らが信じたということが、本当ではなかったことを暴いておられるかのようである。ブルトマンがこの箇所で取り上げているのは、「イエスを信じるとはどういうことか」ということである。
 信じるとは、啓示への応答なのであるが、前論でブルトマンが主張しているように、この啓示が秘匿されているところが決定的である。というのは、啓示が秘匿されているのは、古い自己に対してであり、イエスを真に信じようとする者は、まずこの古い自己を捨て去り、それから自由になる必要があるのであるが、それには、少なからぬ自己否定が必要なのである。ブルトマンの言葉で言えば、「自分自身の疑わしさを悟らない人間には啓示の理解は存在しない。つまり、人間の安定した立場から生じる啓示の理解は存在しない。啓示の正当性についての中立的な検閲や客観的な判断であるような理解は存在しない。」つまり、人がイエスを信じるときに、彼自身の知識や経験から、イエスが確かにメシアであると判断することはできないというのだ。というのは、そのような彼は自分の古い自己によって啓示を理解しようとしているのであるが、その彼にとって啓示は正に秘匿されているのだから。彼が見ているのは、実はメシアではなく彼自身なのであり、そのような彼に対してイエスは、「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ」と言われるのである。
 ブルトマンがここで提起しているのは、イエスを信じることの正しい意味でなのである。それは、生まれながらの人間の父である悪魔との決別であり、そのような身分の放棄である。主イエスは、そのような決断に、人を招いておられるのであり、人は、それによってのみ、天の父の子となることができ、そのとき初めて、啓示が彼にむけて開かれるのである。
 しかし再び、彼らユダや人は、イエスを信じることができなかった。というのは、彼らは真理を愛し求めていたからである。彼らは、すでに彼らの伝統的な真理の中にあり、そしてより良い真理を求めていた。まさにそのことのゆえに、彼らはイエスを信じることができなかった。彼らがイエスを信じるには、まず彼らが持っていた真理を手放す必要があったのだ。
 今日でも、主イエスを信じ、その弟子であると願い、あるいは主張する人がいるか、もしその人が、より良い真理や信仰、献身を求めて彼に従っているなら、その献身はブルトマンによれば、偽りであり、その信仰も正しくないばかりか、彼自身、主イエスがユダヤ人に対してそう呼ばれたところの「悪魔の子」ですらあり得るのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年7月29日 | トップページ | 2007年8月3日 »