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2007/06/30

権威に従うこと

サムエル記下 第20章

 そして、ついに反逆者が出た。シェバというベニヤミン人ビクリの息子で、ならず者であった。彼が角笛を吹いて、「我々にはダビデと分け合うものはない。エッサイの子と共にする斯業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。」と呼ばわると、イスラエルの人々は皆ダビデを離れ、シェバに従った。
 ダビデは、イスラエルの人々に媚びへつらって、ヨアブの代わりに任命した軍の指令官アマサに、ユダの人々を動員することを命じた。しかしそれは無理であった。彼は、その能力もなく、ユダの人々と懇意でもなかったのだから。そこでダビデは、今度は勇士アビシャイに命じて、ツィバを追跡させた。彼は、もはや熟練した指令官ヨアブに顔向けできなかったのだ。それでもヨアブは、アビシャイについて出陣し、途中でアマサに出会い、彼を殺した。
 ヨアブは、つねにダビデの権威に従っていた。彼は、いつも忠実な指揮官であった。しかし、彼の心は、いつもダビデに対抗していた。彼は、ダビデの心の迷いをいつも敏感に感じ取り、そのリスクを評価し、自分の信じるところを行い、栄光を主に油注がれた王ダビデに帰した。彼こそ、イスラエルで最も優秀な指揮官であった。ヨアブは、人が人の権威に従うということの意味を教えてくれる。神は人の社会に権威の階層を設定される。現代社会は、多くの権威の階層の下に成り立っている。家族、学校、会社、自治体、国、それらは、必ずしも一貫しておらず、入り混じった複雑な階層関係になっている。その権威の階層の中で、自分の上の権威に従うとは、ヨアブのように従い、自分の信じる通りに行動し、それら二つのことがまさにヨアブのように調和しているべきことである。自分の上にいる人も人間であり、ダビデのように不完全な者であるからである。しかし神に従うという一点にかけては、ヨアブはダビデのようではなかった。ダビデに近かったのは、むしろアビシャイであった。だからダビデは、ヨアブよりもむしろアビシャイに命令したのである。そして、人は現代を生きるときに、ヨアブのように上の権威に従い、ダビデのように神に従うことを求められているのである。
 シェバは、ベト・マアカのアベルという街に逃げ込み、ヨアブはその街を包囲した。その街に、一人の知恵のある女がいて、ヨアブと話し、賢く振舞って街を破滅から救った。彼女は、ヨアブの権威に従い、ヨアブの権威を受けて自分の権威として行使し、知恵を用いてすべての民のもとに行き、ビクリの子シェバの首を切り落とさせ、ヨアブに向けてそれを投げ落とした。ヨアブは角笛を吹き鳴らし、兵はこの町からそれぞれの天幕に散って行った。ヨアブは、エルサレムの王のもとへ戻った。
 ヨアブこそイスラエル全軍の司令官。ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。アドラムは労役の監督官。アヒルドの子ヨシャファトは補佐官。シェワは書記官。ツァドクとアビアタルは祭司。ヤイル人イラもダビデの祭司である。

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アブサロムの幻

サムエル記下 第19章

 息子アブサロムを失ったダビデの悲しみは大きかった。彼にとって、この勝利は何の喜びでもなく、ただただ悲しみであった。彼の心を理解してくれる者はいなかった。彼は、今度もまた自分の流した血の報いを受けたのであった。ダビデは考えただろう、もう殺し合いは御免だと。彼は、息子アブサロムが行ったことをなぜか憎めなかった。アブサロムは戦いに関しては力がなかったが、人を動かす力を持っていた。それは、彼の人柄であり、その魅力によって多くの人が彼に着き従っていたのであった。ダビデは、自分にもそのような能力があれば、多くの血を流さずに済むのではないかと思った。
 イスラエルの人々がダビデの帰還を望んでいるとの声がダビデ王の家に伝わると王は、祭司ツァドクとアビアタルのもとに人を遣わして講和を求めた。彼は、息子アブサロムのようなやり方で、ユダのすべての人々の心を動かして一人の人の心のようにした。
 ダビデがヨルダン川にさしかかったとき、かつての親しい顔ぶれが、彼を助けようとしてそこに来ていた。そこに、かつてダビデがアブサロムを避けて逃げるとき彼を呪ったゲラの子シムイも来て平伏して赦しを求めた。勇士アビシャイは、言った、「シムイが死なずに済むものでしょうか。主が油を注がれた方をののしったのです。」
 その通り、シムイは死ななければならなかった。もし彼がこの後も生きていることができるなら、王はもはやイスラエルを治めることはできない。それが主が油注がれた王の宿命なのである。アブサロムのような治め方は、幻想であり、この時代ではあり得ないことなのである。しかし、このときダビデは、このアブサロムの幻想にとらわれてしまっていたのである。
 しかし、それはこの時代だけの問題なのだろうか。人はそのように考える。すなわち、力で治めるということは、このサムエル記のような野蛮な時代特有のものであり、現代においては、もっと理想的な解決方法、統治方法があると。しかし本当にそうであろうか。現実にそのようなものがこの世界のどこに見いだされるだろうか。むしろ、それは現代においても、やはり依然として幻想であり続けているのではないか。そして、それを知らずに幻想を追い求めている、「名目だけの正しい人」が、実は世界を悲惨な状態にしているのではないだろうか。そのような人には、主イエス・キリストが万軍の主であることも、報いを持って天から下って来られることも理解できないのであろう。シムイを糾弾するツェルヤの子たちの声にも関わらず、ダビデは、シムイを裁くことをしなかった。
 王がギルガルへ進んだとき、イスラエルの人々が王のもとに来て言った。「なぜ我々の兄弟のユダの人々があなたを奪い取り、王とご家族が直属の兵と共にヨルダン川を渡るのを助けたのですか。」ユダの人々はイスラエルの人々に応えた。「王は私たちの近親だからだ。なぜこの事で腹を立てるのだ。我々が王の食物を食べ、贈り物をもらっているとでも言うのか。」イスラエルとユダは、ダビデ王の前でこのようにぶつかり合った。それはダビデがもはや以前のように、力で国を治めようとしなかったからだ。

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