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2007/06/27

嘆願

サムエル記下 第16章

 アブサロムは、父ダビデに反逆する陰謀のために、ダビデの顧問であったギロ人アヒトフェルを自分の見方に付けていた。アヒトフェルは、神から聡明な心と知恵を与えられた人であり、彼の言葉は、ダビデにとっても神託のようなものであった。アブサロムは、その美貌とやさしい言葉で、巧みにイスラエルの人々の心を盗みとり、賢人アヒトフェルを得、今や多くの兵士をも抱えていた。そこで、ダビデが逃げるのは、ある意味で当を得たことであった。アブサロムは、この陰謀により、楽々と王座を手に入れてしまった。すなわち、ダビデは王座を易々と自分の子アブサロムに譲ってしまったのだった。ダビデと彼に従う者たちは、頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら登って行った。ダビデがバフリムというところにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子で名をシムイという男が呪いながら出てきて、ダビデの一行に石を投げつけた。ダビデは、それを止めさせようとしなかった。
 ダビデの心にあったのは、ただ一つ、息子アブサロムが自分に反逆したことへの驚きと嘆きであった。それが、ダビデからすべての闘志を奪っていた。このことに比べたら、自分の王座が奪われたことなど、彼にとっては小さなことであった。ダビデは勇士であり、どのような強敵にも勇敢にためらうことなく立ち向かって行った。そのようなとき、彼には一点の迷いもなかった。しかし、息子アブサロムのことに関しては、ダビデの心は悩み、当惑し、苦しんだ。そして、反逆者アブサロムに対して、怒ることも、罰を与えることさえもできなかった。このダビデの心は、天の父の罪びとに対する心である。人類の歴史始まって以来の罪深い世紀とも言える現代にあって、天の父がなぜ御怒りを現されないかは、このダビデの心を思うとき初めて理解できる。
 ああしかし、神は侮られるようなお方ではない。現代において、罪人に思うままに振舞わせておられる神は、また思うままに裁かれるお方である。その恐ろしい裁きの日は、必ずやって来るのであり、悪を行っていた者で、それを逃れられる者はいない。ダビデも神に選ばれた王であるかぎり、また侮られるような者ではなかった。もともとダビデには、身を守るものや、財産など、なにも必要ではなかったのだ。彼には、神から注がれた油があった。それが状況を一瞬のうちに変えてしまう力を持っていた。どのように不利な状況にあろうとも、彼の口が祈りに動くとき、そこに神の力が働き、その力は新しい、それまでになかったものを創造し始めるのである。その祈りは、どのようなものだろうか。怒涛のような雄叫びであろうか。いや、それは今日の神を信じる者の嘆願と同じ祈りなのである。彼ダビデは、神に祈った、「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と。

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気分転換

情報宣教方法論(ゲーム)

 ゲームとは、自己が承知で、或るいくつかの予想される結果に至る課程に関わることと言えよう。通常、そこから学ぶものは何もない。そこにあるのは、感情の高まりと時間の浪費である。それでも、なぜ人はそれに参加するのだろうか。
 ドラマを見ることも、ゲームと言えるのだろうか。しかし少し違うところは、人が何かそこから学ぶことがあるかも知れないということだ。ドラマを見て、そこに出てくる人の人生を模擬的に体験し、それを自分の人生に生かすことができるなら、そこにはゲームとは違う要素があると言えるだろう。ドラマの特徴が、その発見性にあるのなら、最近のRPG(ロールプレイングゲーム)にもドラマ的な要素がある限りでは、それはゲームではないと言えるかもしれない。しかしRPGにしろ、それに何度もトライすることは、発見性(ここで言っていることは、解法の発見という意味ではなく、新しい体験というほどの意味である)を失わせることになり、単なるゲームとなってしまうだろう。
 いずれにしても、世の若者たちは。ゲームにはまり込んでいるように見える。リアリティは、ますます向上し、圧倒的な現実感の中に、我を忘れるひとときは、彼らに日常のストレスを一時的に忘れさせる効果はあるかも知れない。しかしそれは所詮、仮想現実であり、おとぎ話なのである。そこからいったい何が得られるのか。それがもし、気分転換だけなら、それは、信仰的には何の意味もなく、パウロが言っていることが本当だとすれば、信仰によらざることは罪であるゆえに、ゲームは罪ということになる。これは、人生観の問題でもある。人生は何のためにあるのか。人は何のために生きるのか。気分転換という、ゲームの一つの役割は、この人生の目的に沿って理解される必要があると思う。
 しかしそもそもなぜ、気分転換が必要なのだろう。人生がすばらしいもので、そのために生きる価値のある目的を持っているのなら、なぜそこから目をそらすことが意志されて来るのだろう。それは、人生にはすばらしい目的があるのだが、人が日常的に関わっている仕事は、その目的とは直接関係ないものであるという前提に立っているのだろう。つまりそれは、生活費を稼ぐためなのである。
 しかし、この世界に、これこそ自分が生きている目的だと言えるような仕事があるだろうか。やりがいのある仕事に打ち込んでいる人はたくさんいることだろう。しかし、その人々のなかに、自分はこれをやるために生まれてきたのだと言える人がいるのだろうか。たとえ今の自分の仕事が面白くてしょうがないということでも、それでその人がその仕事をやるために生まれてきたと言えるわけではないとすれば、自分の仕事に完全な必然性を見出さない限り、その人は、気分転換、すなわちゲームを必要とするのかもしれない。
 しかし、信仰者はどうであろう。彼は、神との関係において、自分に与えられた仕事に確信を持っている。彼が今している仕事は、まさに神から与えられたものである。それゆえ、彼には、気分転換は必要ではない。彼にとっては、今の仕事が喜びであり、人生の目的なのだから。もはや彼は、なるべき者になってしまっているので、どのような不満も彼には起こりえない。ここに至って、初めて人は、ゲームから解放されるのだろう。

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反逆

サムエル記下 第15章

 アブサロムは、父ダビデの前に出ることを許された後、戦車と馬ならびに五十人の護衛兵を整え、王への反逆を企てた。なぜ彼の心は、このように急に変わってしまったのだろう。やっと念願の父の前に出られたと言うのに。しかしこのことは、アブサロムの心の奥にあったことが明るみに出ただけなのだ。彼が父ダビデの前に出たいと思っていたことの真の意味がこれで明らかになった。それは、最初から反逆への願望だったのだ。その隠れた願望は、その前にある人並みな願望がかなったときに、初めて自覚され、外へと現れ出でるのである。
 これは、ちょうどルシファーが神に反逆したのと同じである。イスラエルの中に、アブサロムほど美しさにおいて秀でている者はいなかった。彼の美しさは、父ダビデより勝っていた。しかし彼は父ダビデから出てきた者であった。しかし彼の心は、自分の作られた美しさにより高慢になり、自分を産んでくれた父に反逆し、父の栄光を横取りしようと思うに至ったのである。
 ダビデは、王宮を後にして出発し、彼を慕う人々もその後に従って行った。レビ人も神の箱を担いで従って来ていたが、ダビデはレビ人に神の箱と共にをエルサレムに帰るよう指示して言った。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。」彼は外国人のイタイがダビデと共に亡命したいと願うのを聞き入れ、着いて来ることを許した。
 しかし、ルシファーの反逆の構図から見れば、逃げているのは、実はアブサロムの方であり、ダビデではないのだ。例え神の箱がアブサロムと共にあったとしても、問題は、神がどちらの側におられるかということなのである。
 ダビデは、アヒトフェルがアブサロムの陰謀に加わったという知らせを聞き、重臣フシャイをアブサロムの元へ送り、彼にスパイ活動を依頼した。王宮には、すでに祭司ツァドクとその息子アヒマアツ、アビアタルがいて、ダビデのための情報収集に従事していた。

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