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2007/06/26

とりなし

サムエル記下 第14章

 ダビデは、思いの中では、すでにアブサロムを赦していた。しかしダビデは、心においても勇士であり、それが時には彼の邪魔をした。イスラエルに、彼ほど感情が豊かな者はなかった。そして、彼ほど冷静な者もなかった。ダビデは、詩を詠み、竪琴を奏で、歌を唄い、戦に奮い立ち、貧しい者を哀れみ、敵を思うままに打ち殺した。しかし彼は、それらを自分の思いのままに行ったのではなく、いつも神に従い通し、ただ神との関係の中で行動したのである。そして、それゆえ、そのようなダビデの心は、アブサロムを慕い求めると同時に、兄を殺した彼を赦すことができなかった。これは、大いなる矛盾である。勇士の心の中は、そのように矛盾に満ちているのである。そして、サムエル記が書かれたのは、それを読む者がこの大いなる矛盾に驚嘆し、それにより自分の内の矛盾に気づき、その結果、神の前に自分を低くして、ダビデのようにただ神にのみ望みを置くようになるためである。だから、サムエル記を読む者が、もし自分の人生で、ダビデになろうと願わないなら、それを読む価値もまたないと言えよう。彼が自分の人生で、ダビデのように勝利を得、自分の心の王国を神との関係でダビデのように治めようと望まないのなら、サムエル記が書かれた意味はないのである。
 ヨアブは、ダビデの心がアブサロムに向かっていることを悟り、チコアに使いを送って一人の智恵のある女を呼び寄せ、彼女に王に語るべき言葉を与えた。女は、王のところへ行って言葉を語ったが、ダビデは会話の中でそれと気づき、優しく尋ねた、「これはすべて、ヨアブの指図であろう。」
 ダビデは、ヨアブに命じてゲシュルからアブサロムを連れ戻した。しかし、アブサロムがエルサレムに着くと、王は言った、「自分の家に向かわせよ。わたしの前に出てはならない。」アブサロムは、自分の家に向かい、王の前には出なかった。
 アブサロムは、エルサレムで二年過ごしたが、王の前に出られなかった。たまりかねたアブサロムは、ヨアブのところへ使いをやり、彼に取りなしを頼もうとした。しかし二度目の使いにも、ヨアブは来ようとしなった。ついにアブサロムの部下がヨアブの畑に火を付けるに及び、ヨアブはアブサロムのことを王に取りなし、アブサロムはやっと王の前にでることができ、王はアブサロムに口づけした。ダビデは、どんなにこの日を待っていたことだろうか。
 サムエル記を読むことは、何かこう心を揺さぶられる思いがする。なぜなら、そこには、考えられるすべてのドラマが綴られているように思えるからである。あなたは、感じないのか、このように理解しないのか、自分の愛する子に会って赦しを与えたいと思いながら、それができない父、父の前から逃れ、それでも父のもとに帰りたがっていた息子、その間を切なる配慮で取り成す軍の司令官、それらは、天の父、人、御子キリストを表しているのだと。

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罪の力

サムエル記下 第13章

 その後、悲惨なことが起こってしまった。ダビデの子アブサロムの妹タマルを、こともあろうに、アブサロムにとって異母兄弟の兄アムノンが辱めたのだ。アブサロムは、このことでアムノンを憎み、復讐の機会を待っていた。そしてある日、羊の毛を刈る儀式にアムノンを招き、ついに彼を暗殺してしまった。
 これはダビデが犯した罪の結果としての諸々の災いの始まりであった。アブサロムは、父ダビデの怒りを買い、ゲシュルの王アミフドの子タルマイのもとに逃げ、そこに三年間留まった。アムノンを悼み続けていたダビデの心は、次第にアムノンのことをあきらめ、再びアブサロムを求め始めていた。しかしダビデは一方で、アブサロムを赦すわけにはいかなかった。そして、この対立は後にアブサロムの父ダビデへの反逆へとつながっていく。その背景には、異母兄弟という境遇の、言葉には表せない軋轢もあったのだろう。
 しかし、なぜダビデが犯した罪がこのように後になって芽を吹き、恐ろしい反逆へとつながって行ったのだろう。罪はどのようにして伝播するのだろうか。それは、見ることを介してである。聖書の中で「目の欲」と言われているが、それは見ることだけを指すのではなく、知ること全般を指すのだと思う。アムノンは、かつてダビデとバト・シェバの一件を知った。そのとき、アムノンが父ダビデのことをどのように思ったかは別として、彼はそのようなことが起こったことを知ってしまった。それがアムノンの心にあったことが、彼の過失における非常に大きい部分を占めていると思う。それは、最初の誘惑がエバの心に入ったのと同じである。それは当初は、単なる知識に過ぎない。エバの場合にはそれは、「あの実を食べれば賢くなれるかもしれない」という知識であったし、アムノンの場合には、自分の父がそのようなみだらなことを行ったという知識であった。しかし、その知識が内に入るやいなや、それは人の心に住み着く、そう、記憶というシステムによって。そして、彼の悪しき性質は、そのままにしておけば、やがて少しづつ薄れて行くはずのその記憶を常時上書きし、鮮明さを回復させるのである。その悪しき記憶は、そのようにして彼の中で生命を維持しながら、さまざまに変体を重ね、成長しながら産まれ出る時を待つ。そして或るとき、彼の腹を食い破って外へ出て来るのだ。
 罪とは、そのように恐ろしいものだ。いったい誰がそれに打ち勝つことができようか。人がそれに勝つためには、自分の死による他はない。彼が生きている限り、たとえ彼がどのように賢くとも、彼は罪の奴隷なのである。しかし、もし彼が死んだなら、罪は彼に何の力もなくなる。イエス・キリストの十字架はそのためにあるのだ。
 サムエル記のテーマは、「戦い」の他に、この「罪」でもある。戦いが終わるところ、罪が始まるのである。信仰者は、一生涯戦い通さなければならない。サムエル記はそのことを教えている。そして、それはまた、人が戦いの中にあって、どのように平安の中に在り得るかをも教えている。詩篇を味わうには、サムエル記を理解しなければならない。ダビデの心を自分の心としたもの、すなわち、ダビデのように戦いの中にある者だけが、ダビデの書いた詩の意味が分かるのだ。

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