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2007/06/24

誘惑

サムエル記下 第11章

 当時は、国同士が常に互いに分かれ争っていた。敵と戦って勝利し、財産を分捕り、それにより豊かになることは、誉あることとされた。サムエル記は、そのような時代のことであり、ダビデはそのような情勢の中で神によりイスラエルの王とされたのである。イスラエルはダビデにより再び統一され、強大な軍事力を誇るようになっていたが、ダビデ自身は王として、自分の下に軍の司令官等を置き、全体を統率しながら諸国に対して覇権を及ぼしていた。
 当時、イスラエルの周りには、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人等々が住んでいたが、それら異邦人の多くは、ダビデにより制圧されてイスラエルに隷属し、貢を納めるものになっていた。しかし神は、イスラエルが他国と入り混じることを許されなかったので、ダビデはそれら異邦の国を侵略して一つの統一国家を打ち立てるようなことはしなかった。つまり、イスラエルとその周りの異邦人諸国との間には、常に緊張関係があったのであり、イスラエルは常に戦いに備えている必要があったのである。この状況は、今日における私たちの信仰生活に類似している。というのは、私たちの周りには、つねに脅威があり、誘惑があり、危険がある。私たちにとって、最も恐るべき存在は、目に見えない悪の力であり、それは私たちが気を許すのを捉えて、私たちに戦いを挑み、私たちの信仰という砦を破壊しようとしているが、私たちに、その敵を打ち破ることは、許されていないのである。
 さて、年が改まり、諸国の王たちがそのように戦いを求めて出陣する時期になっていた。ダビデも、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。ヨアブはそのころイスラエルの全軍を一手に指揮していた。彼はある意味で、ダビデよりも戦術に長けていた。ダビデは、常に兵士の先頭に立って戦ったが、ヨアブは、全軍を巧みに指揮し、頭脳的な戦いにより勝利を得た。そのようなところに、なにかダビデとは相容れないところがあり、戦略においてもしばしば意見を異にしたのであろう。ヨアブを送り出したダビデ自身は、エルサレムにとどまっていた。ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのに目を留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻であった。ダビデは、使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にしてしまった。
 何がダビデにそのような不遜な行いをさせたのだろうか。一つには、バト・シェバの夫ウリヤがヘト人であったことが挙げられるだろう。自分が征服した民、思いのままに殺し、財産を奪うことを神が許された民であったこと、それがダビデに、この場に及んで、その妻をいとも簡単に奪わせることになったのだと思う。しかし神は、律法により、寄留の異邦人をイスラエルの民と同じように扱うように命じておられたのである。これは、人間的には大いなる矛盾に見える。そこに表されている「戦い」、「人の命」、「愛と哀れみ」、これらの意味は、私たちが人間的な心で推し量るものとは、根本的なところで違いがあり、私たちはそのある切り口だけを見ているのかもしれない。だから、戦争や災害のような惨事において、根本的な条件が狂ってしまうと、私たちは当惑して、混乱の中に陥れられる。しかし神の愛は、天地創造から変わらずにあるのであり、その愛が、ご自身の一人子を私たち罪びとのために、十字架に架けたのである。
 しかし、サムエル記が語っているもう一つのことがある。それは、私たちは、ダビデだということである。私たちは、今ダビデと同じ時代に生きており、周りには敵がいるのである。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」とペテロは言っている。だから、もし私たちがこのときのダビデのように、戦いに出ることをせず、王宮に留まっているような、安穏とした信仰生活を送るのなら、私たちを待っているのは、誘惑と敗北である。戦いの中にいない私たちの心は、襲って来る誘惑に対して、無防備であり、様々な理由をつけてその誘惑に乗ってしまう。ちょうどダビデがバト・シェバの誘惑に負けてしまったように。

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