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2007/06/22

戦いの器

サムエル記下 第8章

 ダビデの治世に神が与えられたしばらくの平和な期間の後、彼は再び怒濤のような戦いの日々に自ら突入して行った。ダビデは、ペリシテ人を討って屈服させ、メテグ・アンマを奪った。また、モアブを討ち、そこの多くの人を殺した。ダビデは次に、ツォバの王、レホブの子ハダドエゼルがユーフラテスに勢力を回復しようとしていたのを討ち、騎兵7千百、歩兵2万人を捕虜とした。それらの結果、アラム人、モアブ人、エドム人、アンモン人、ペリシテ人、アマレク人は、皆ダビデに隷属し、貢を納めるようになった。
 神はダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。しかし、彼はなぜまた、戦いの中に自分を投げ込んだのだろう。それは、それが彼の宿命だったからだろう。彼は神に、戦いの器として定められていたのだ。もし彼が戦いに出れば、神は彼を守り、彼にいつも勝利を与えられる。しかし、もし彼が戦いに出なければ、彼は災いである。神が彼に賜った働きをしないからである。神は、多くの賜物を一人の人にお与えになることはない。それは、人が思い上がることのないためである。
 今日でも、もし人がすべてにおいて、正しくなろうとするなら、彼を待っているのは、誘惑と迷いである。彼が神の御心にかなうことを願うなら、彼は正しくなろうとしてはならない。それは彼の分ではない。なぜなら神は彼に正しいことのすべてを与えられることがないからである。彼は自分が神から賜った一握りの正しさで満足すべきである。彼が求めるべきものは、彼が義となることではなく、義なる神に彼が従うことである。神は、彼一人に多くの賜物を与えられることはない。神は、それぞれにふさわしい賜物を与えられるのである。それゆえ私たちは、互いに尊敬し、それぞれの中に神の栄光を見ながら、一つの群れとして成長して行くことができる。
 かくして、ダビデに神が与えられたのは、「戦いと勝利」であった。ダビデは、それを直感的には理解しながらも、一方で神の義にあこがれた。彼は、以前のように、異邦の民を皆殺しにするようなことはもはやしなかった。そして、異邦人は、彼に隷属し、貢を納めた。ダビデは、また王として全イスラエルを支配し、その民すべてのために裁きと恵みの業を行った。

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チャレンジ

情報宣教方法論(情報技術者の祈り)

 神よ、あなたは情報技術をも作られました。この世界のすべての智叡、英知は、あなたのものです。私たち情報技術者をあなたのご栄光のために、お用いください。私たちが今持っている知識は、非常に不完全なものであります。現代社会の膨大な技術蓄積と目の前に積まれている課題に直面するとき、人々はたじろがざるを得ません。しかし、私たちは、恐れません。あなたはすべてを知っておられ、いつも成すべきことを教えてくださるからです。だから、私たちに今必要なことは、第一に祈ることです。このことに比べたら、他のすべての努力は空しく、とるに足りません。情報技術の世界においても、すべてはあなたが動かしておられ、あなたの御心だけが実現するからです。
 神よ、私たちにするどい感性と勇気をいつもお与えください。というのは、課題はいつも巨大で不可能に見えるからです。しかし、そこにまたあなたの助けが必ずあることを信じます。問題や課題を前にするとき、いつもあなたの元にそれを持って行き、そして解決を与えられますように。
 日常の中で、自分の抱えている課題の大きさに目を留めつつも、あなたが私たちに成させようと意図されていることに気がつき、それがどのように困難に思えたとしても、ただあなたの御助けを期待して、それにチャレンジして行く決心をすることができますように。

 万軍の主イエス・キリストの御名によって、アーメン

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バーチャルチャーチ

情報宣教方法論(宣教のサービス化)

 これまで、このカテゴリーにおいては、主に情報技術の種々な切り口から、それに纏わる宣教の可能性を取り留めもなく書いてきた。しかしここで、論点をはっきりさせるためにも、今度は宣教的な切り口から、情報技術の位置づけについて書いてみたい。
 宣教と言えば、「みことばを宣べ伝える」すなわち、福音の伝達というプロセスがある。ここにおける課題は、3つ考えられる。それらは「3つのC」に例えられる。1つ目は「Carry:運ぶ」ことであり、「良い訪れを宣べ伝えるもの足音は・・・」とあるように、御言葉をそれを聞くべき人のところへ届けることである。2つ目のCは「Claim:宣言」であり、人に罪があること、そしてそれに対して、主イエス・キリストがもたらした恵みと真を宣言するのである。3つ目のCは「Catch:捕らえる」ことであり、魂を悔い改めに導くのである。これら3つのCは、いま述べた通りに順を追って提供される必要があると共に、またそれぞれの内部においても、正当な順序が守られる必要がある。つまり、福音を聞いた人が罪を自覚しないうちに、赦しを宣言することはできないのであり、御言葉が宣べ伝えられないうちに、人に罪が自覚されるということも、またないのである。
 そこで、情報宣教の課題としては、上記の3つのCを情報システムのサービスで置き換えたとき、それぞれのプロセス間、またはその各々の内部における的確な順序が守られ得るか、または、どのようにして順序正しく宣教のプロセスを実施し得るかということである。
 従来は、複雑性を回避するために、情報システムは、最初のC、つまり「Carry:運ぶ」の機能しか持ち得ないと考えられていたように思う。これはいわゆる種まきであり、その後の発芽、成長、刈取りは、教会生活の中で行われるべきだという考えである。それも一理あるかも知れないが、この忙しい現代社会の中で、どれくらいの比率の人が、情報システムで蒔かれた種の結果として、教会デビューを果たし得るかは、かなり悲観的な展望になるのではないか。むしろ、種まきよりももう少し先の宣教プロセスを情報システムのサービスとして取り入れ、提供することを考えていくべきではないのか。それには、上述のように順序というものが守られる必要があり、Webシステムにおいては、小さくはセッション管理、大きくは、CRM(Customer Relation Management)の実現が必要となる。これらは、インターネットを使った商売、すなわちEコマースを目的として開発されたものであるが、それは実は神の摂理であり、実は福音宣教のプロセスをインターネットで行うためのものとも考えることができよう。私は、これらを駆使することにより、宣教プロセスのかなりの段階まで、情報システムのサービスによって遂行できる可能性が高いと思っている。しからば、宣教のクライマックスである「刈取り」のプロセスまで、情報システムのサービスに置き換えることができるのだろうか。非常に乱暴な言い方をしてしまえば、この「刈取り」のプロセスは、Eコマースにおいては、「契約」とか「決済」とかのプロセスに該当する。人がオンラインショッピングで品物を買うとき、最後に「注文ボタン」をクリックすることがこれに当たる。その前に、カタログを見たり、購入者の感想や体験談を読んだりし、その結果購入を決意し、クレジットカード№を入力して、「購入ボタン」を押すのである。
 たぶん多くの方は、このような宣教プロセスとEコマースとの対比を不愉快に思われることだろう。人の魂を金で買うような、そして、宣教を商売のように考えているような感触を持たれるかもしれない。しかし、ここで真剣に考えられていることが一つある。それは、「福音に対する決断」、これこそが人の心を神に向けさせるのであるが、それが提供されるまでに、従来はその人が教会に来る必要が多分にあったということである。そしてそこに至るまでに、いくつかのハードルを乗り越える必要があり、その中の一つに現代の若者にとって次第に苦手な存在になってきているところの対人関係というものがあるのである。
 しかし本来救いは、人とキリストとの間の一対一の事柄であり、関係でもあることを思うとき、上記のような固定概念をどこまで踏襲すべきか問われる必要があるいはあるのかもしれない。そして、そのような冒険的かつ建設的な試みを繰り返して行った到達点が、いわゆるバーチャルチャーチの構想であり、そこでは、教会生活としての信徒間の交わりもSNS等のWebサービスとして提供されることになるだろう。しかし、教会の一つの重要な機能としての洗礼を授けることまでが、バーチャルチャーチの機能として実装が可能かどうかについては、それが、教派や教会組織に基づく運用上の重要な問題に関わると考えられることから、ここでは、かなりの困難があるとだけ述べておきたい。
 しかし、何もバーチャルチャーチを立ち上げないまでも、現存の教会が、現在の宣教活動を補完し、末端の多種多様な人々にまで福音が届けられ、かつそれらの人々に、それぞれの嗜好や現状に合った自由度の高い教会生活をある程度まで提供しようと企てるならば、上述の方法論は、あるいは一つのソリューションであり、選択枝となり得るのではないかと思う。

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