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2007/06/15

王の力

サムエル記下 第5章

 全イスラエルの長老たちは、ダビデの元に集まり、彼と契約を結び、彼に油を注いで全イスラエルの王とした。ダビデの王権は、次第に全イスラエルにおいて確立して行った。ティルスの王ヒラムは、ダビデのもとに使節を派遣し、レバノン杉、木工、石工を送り、ダビデのために王宮を建てさせた。それらのことを見て、ダビデは、主が自分の王権をイスラエルの上にゆるぎないものとして下さったことを実感した。
 王権を握るということは、とてつもない緊張のなかに身を置くことである。それは重くのしかかり、その人は安らぎを求めてさまようことになる。かつてのサウルもこの重圧に押しつぶされそうになった。ダビデのような繊細な心は、どんなにか圧迫感を感じていたことだろう。しかし彼には、自分に与えられた王権にふさわしく行動することが求められていた。小さい者から大きな者に至るまで、健康な人から病人までが、ダビデを王として彼に従うことが必要なのである。その意味で、彼には以前のような純粋な正義の中に生きることは、もはや許されなかったのだろう。ダビデが側女を何人も置いたのは、そのような重圧からつかの間に逃れるためだったのかもしれない。
 王が民を裁くのは、直接的には義によるのではない。それは、民が彼に従うかどうかによるのだ。もし義によるとしたら、もはや王は、権力を維持することはできない。私の方が正しいという者が出てくるからだ。義に関する観念が人によって異なる以上、この世界は、もはや義によっては治めることができない。会社にしても政治にしても、根本は、権力者に従うかどうかということであり、それが理解できない者は子供であり、人を動かすことも協力して何か事業を成し遂げることもできないだろう。ダビデは、神の義によって民を裁きたいと思った。しかし彼は、現実を思い知らされた。彼は、目や足の不自由な者にさえ、自分の王権を行使し、彼らに自分の力を思い知らせざるを得なかった。
 ダビデが王座についたことを知ったペリシテ人は、彼の命をねらって攻め上ってきた。しかし、イスラエルの王の上には、常に主からの油注ぎがある。そのとてつもない力が輝き出て、敵が自分の前で、水が堤防を破るように打ち破られるのをダビデは見た。しかしそれは、彼の許容力を超えていて、その前に彼の人格が無傷でいることはあり得なかった。

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平安

情報宣教方法論(セキュリティ)

 セキュリティとは、「守る」という意味である。つまり何でも、守るものは、セキュリティである。人を守る、情報を守る、機械を守る、コンピュータを守る、・・・・。なぜ、守ることが必要なのだろう。悪いことをする人がいるからである。悪いことをする人は少数でも、守るのは大変な労力となる。アメリカで起こったテロを見れば実感できるだろう。テロリストはどこに潜んでいるか分からない。だから、たくさんの見張る人が必要となり、たくさんの労力とお金が必要となる。いったいどうすれば良いのだろうか。それには、みんなが一致協力するしかない。しかし、このみんなというのがくせものであり、みんな良い人かどうかが分からないところに悩みがある。今まで良い人だったのが、急に悪い人になることもないとは言えないだろうし、そもそも良い人だと思ったのが間違えだったりすることもあるだろう。そこで、みんなが一致協力することが難しければ、できる限り協力するということになる。このできる限りの協力とは、プライバシーを差し出すことである。
 アメリカを旅行すると、いたるところで見られているような、監視されているような感覚に襲われることがある。トイレの入り口にもカメラが仕掛けてあったりする。スタジアムに出入りする人の顔は、一人残らず記録されているという。最近では、空港の入国審査のときに、指紋に加えて、顔写真を撮られてしまう。たぶんそれと照合されているのだろう。
 そんな調子で、プライバシーがなくなったら、どうなってしまうのだろう。やはりアメリカでは、皮膚に埋め込む、ごく小さなICチップが開発されたという。日本でも、高速道路を走る車のナンバーは、みな記録されている。このような世界では、一度目をつけられたら最後、逃げ場はなくなってしまうだろう。そのようにして、テロリストを追い詰めることが目的なのだから。しかし、目をつけられさえしなければ、あまり恐れることもないのではないのか。見張っているのは所詮機械だし、機械に私生活を見られても、あまり恐ろしくはない。彼らは、ただ無差別に記録するだけなのだから。そして、それを人が調査しようとすると、恐ろしく時間がかかるものなのだ。とても一人一人の私生活を丹念に調べる訳にはいかない。でも、一度目を付けられたら大変なことになるのだろう。そして、この目を付けられるということが、また、なんのきっかけでそうなるのかが、はっきり分からないところに恐ろしさはある。
 そのような世界は、やはり信仰がなければやっていけない。私たちクリスチャンは、今こそ現代科学が作り出すセキュリティシステムのはかなさを世に示すべきではないだろうか。そう、自分の生活態度によって。どんなセキュリティシステムを構築しても、またどんな高いお金をかけてそれに加入しても、信仰者の祈り以上に平安を得ることはできないし、それ以上に安全に暮らすこともできないということを。今こそ、毎日の生活によって、世に示して行こうではないか。

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