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2007/06/13

新しい言葉

情報宣教方法論(オブジェクト指向)

 「オブジェクト指向」とは、「もの的な仕組み」であり、それが最近の情報技術の一つの流行なのである。アップルやマイクロソフト社は、パソコンにこのオブジェクト指向を導入し、ディスプレイ画面の上にプッシュボタンや操作レバー、机(デスクトップ)や引き出し(フォルダ)等を作り込んでしまった。それらはどういうことかと言うと、コンピュータの中にこの現実世界をできるだけ忠実に再現し、外からそれらを自由に操作したり、またその中でものごとを完結して考えられるようにしようというものである。
 このオブジェクト指向は、情報技術のあらゆる分野に浸透している。その中でも、特に注目すべきは、プログラミング言語への実装である。これは非常に強力であり、たとえば、従来は数式の中の「a」という変数には、ある決まったもの以外は入れることができなかった。例えばそれは、数字であったり、せいぜい文字列であり得るくらいであり、取り扱いを間違えるとそこでコンピュータがストップしてしまうのが普通だった。しかし今では、「a」の中には、コンピュータの中に入るものは何でも、すなわちこの世界のものは何でも入れることができ、しかも入れたものの性質に応じて、それにふさわしい計算を自動的に行ってくれるのである。つまり、「a」の中に数字が入っていれば「a+b」は文字通りの加算となり、「a」に「情報」、「b」に「宣教」という文字列がそれぞれ入っていれば、「a+b」の答えは「情報宣教」となる。またさらに「c」に2007という数字が入っていて「a+b+c」を計算してしまっても心配いらない。答えは「情報宣教2007」となる。
 そのような処理系においては、人の会話を数式で表現することも可能となる。例えば、「Aさんは靴を買うという文章は、「A:buy(shoes)」と書くことができる。このとき、「A」は、人というオブジェクトの名前、「buy」は、買い物をするという行為、「shoes」は、買った物である。同じように、「Bさんがケーキを買う」ならば、「B:buy(cake)」となる。この「buy」という行為は、人に関係なく定義して使うことができる。また、この式の計算結果は、例えばAまたはBさんの満足度と設定することもできる。それなら「if ( A:buy(shoes) > A:buy(cake) )」という表現は、「Aさんがケーキを買ったときよりも靴を買ったときの方がうれしかったなら・・・・」という意味となる。このように表現できることもすごいが、もっと驚くべきことは、これがコンピュータの中でちゃんと動くということである。
 このオブジェクト指向プログラミング言語という仕組みを使えば、例えば聖書をコンピュータの中に入れて動かすことだってできそうな気がしてくる。ヘブル語は、神の言葉とも言われ、非常に精密にできており、様々な意味が隠されていると聞いたことがある。今はその意味が失われてしまっているかもしれないが、かつては、それが大宇宙の神秘を的確に表現しており、ものの名前一つ取ってみても深い意味があったらしい。例えば日本語にしても、例えば「いぬ」という名前の意味や、「来る」という言葉の意味が分からなくなってしまっている。どうして「来る」は、「く」+「る」なのかということである。それらの失われてしまった意味の探求も興味深いが、新しい言語の創造はもっと興味深い。かつて、イスラエルの民がバビロン捕囚から開放されるとき、失われたヘブル語の再構築が行われ、それにより、ヘブル語はサンスクリッド語のような精密な言葉となったと聞いたことがある。しかしオブジェクト指向プログラミング言語によれば、これまでになかったような新しい、もっと純粋な言葉を構築できるかもしれない。もちろんそれには、信仰が必要である。信仰により、この世界の目にみえるものができる元となった、目に見えないものを見ることができるならば、それも可能かもしれない。それにより、インターネットの中の乱れた世界を再創造できるかもしれないし、むしろそれが求められているのかもしれない。現代情報社会の病理がそのことを示しているようにも思える。

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黙示のシステム

情報宣教方法論(インターネット)

 インターネットは、従来の距離概念の一部を崩壊させた。その能力により、私たちはたとえ地球の裏側にいる人とでも、すぐそばにいるかのように自由に会話できるようになった。親しい人との間なら、このことは歓迎されることなのだが、見ず知らずの人といきなりそのような関係になり得るというところに、今度は逆に恐れや不安を感じるようになってしまった。迷惑メールやコンピュータウイルスの横行は、目に見える驚異であるが、スパイウェアのようなものが知らない内にどこからともなく自分のパソコンへ送り込まれていて、自分のファイルの中身を覗かれているようなことが日常になってきている。たとえそのような不法なことでなくても、例えば、Googleが提供しているデスクトップ検索ツールをインストールしたら、自分のパソコンの中身がすべてGoogleに筒抜けになることくらいは誰でも想像できるだろう。そして、ある日、秘密で認めていた日記の内容がGoogleで検索されることにまではならないまでも、順位決定の一判断材料として、Google検索機能の背景で。利用されているということは十分に考えられることである。
 そのように、インターネットが発達し、どのパソコンにも訳の分からないスパイウェアが何十と見つかるような今日の状況では、自分のパソコンの中身は、誰かにすでに覗かれてしまっていると考える方が確実だろう。しかもこの私のパソコンの中身を毎日見ているのは、この筋でもっとも警戒すべき相手である可能性も高いのだ。だからそういう状況の中では、それを防ごうとするよりも、そうなっていることを前提として各自が対処する以外にないのではないだろうか。
 ところで、この状況は、イエス様が前もって言われていた状況である。「あなたがたは、私を証しするために、権力者たちの前に立つことになる」と主イエスは言われた。今、私たち信仰者は、家のパソコンの前に座りながら、世の権力者、陰の力たちの前に立たされているのである。この状況は、あたかも勇士ヨナタンが、武器を従者に預けて、素手でペリシテ軍の待つ崖をよじ登った状況に似ている。私たちは、敵に好きなように料理されてしまう可能性の中に生きていると言えよう。しかし、ペリシテ人は崖の上でヨナタンの前に倒れたのであり、神の助けにより、今私たちにそれが可能なのである。そしてそれは、むなしい戯言でも絵に描いた餅なのでもない。
 私たちが自分の生活をすべて主に明け渡し、人生を主にお捧げするとき、私たちが認める小さな日記も、また大事業の企画や実施計画も、天の神を証しする、大いなる武器となるのである。それは、Googleの検索ロボットや見知らぬスパイウェアに運ばれて全世界を駆け回ることになる。しかしそれは、神の暗号で書かれており、その謎を解くことは誰にも、またどんな科学技術によってもできない。それには、預言と同じ黙示のシステムが用いられている。つまりそれは、意味論的な暗号なのであり、それを書いた人とそれを読むべき人だけが理解することができる。それを解くには、その対象者と同じ人生を生き、同じように感じることができる必要があるのである。したがって、それはまた、一つの文書で複数の人に複数の意味を伝えることができる。これが神の知恵であり、インターネットと言えども、この黙示のシステムの下で働くのである。
 そして、そもそもこの黙示のシステムの集大成が、あなたが今手にしている「聖書」なのである。

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