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2007/06/08

忠誠

サムエル記上 第30章

 ダビデと兵士たちがアキシュと分かれてティクラグの町へ戻ってみると、そこはアマレク人に焼き払われ、人や財産は奪い去られた後だった。それを見た兵士たちは悲しみのあまり、泣き叫んだあげく、ダビデを石で撃ち殺そうとした。ダビデの2人の妻たちもアマレク人に連れ去られており、ダビデは大いに苦しんだ。今や彼は、異境の地にあって、自国の神に見捨てられてしまったのだろうか。彼は、神の前に倒れ伏しながら、なぜこのようなことになったのかと、悶々としたに違いない。神も、もしかしたら、あるいは本当に、ダビデを見捨てようと考えておられたのかも知れない。神は、選びの神であると同時に、公正な義なるお方だから。そしてダビデとて神の前に、一人の人間以上の者ではない。サウルを捨てられた神は、同じようにダビデをもまた捨てられるだろう、もしダビデが神の前に、イスラエルの王にふさわしく歩んでいないのならば。ダビデは、祭司アビアタルにエポデを持ってくるように命じた。
 ダビデは、たとえ自分が異境の地にあろうとも、また今アキシュの家来のような立場にあろうとも、そして今、神の裁きによって、自分の妻や財産がアマレク人に奪われてしまったかのように思えようとも、彼と神との関係を変えようとはしなかった。そして彼は、あえてその神、主によって力を奮い起こしたのだった。彼は、彼の現在、そして将来の存在理由のすべてを掛けて、自分の信じる神、主に問うた。「あの略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
 ああなんということだろう。神は、義の神であると同時に哀れみの神であり、永遠に不動の神であると共に、この有限な時間の中で私たちと共に生き、考え、御心を思い返されるお方なのである。このとき正に神は、ダビデに下した災いを思い返されて言われた、「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」 神は、ダビデが問わなかったことまで、彼にお答えになった。神は、私たちの住むこの世界においては、ご自身の燃える愛を、あたかも感情的なまでに注ぎ出されるお方なのである。しかし再び神は、永遠に不動のお方であり、アマレク人がダビデの民の一人にでも手を掛けることを許されていなかったのだった。
 ダビデはアマレク人の後を追い、神の助けによって、すべての民と財産を取り返した。兵士たちは、口々に言った、「これはダビデの戦利品だ」と。まさにそのとおり、それらはダビデの神への愛の戦利品なのであった。
 ダビデは、神からいただいた愛を、神の愛されるイスラエルの長老たちに贈り物として送った。この出来事で、ダビデは神の永遠の愛をあらためて体験しただろう。それは、永遠に不変であるゆえに、自分の神への愛も永遠に不変でなければならないと。そして、自分はイスラエルの王として、イスラエルを永遠の愛で愛しておられる神を民に示す者とならなければならないのだと。

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