« 2007年6月6日 | トップページ | 2007年6月8日 »

2007/06/07

ダビデのスピリット

情報宣教方法論(ドキュメント概念の認識)

 手紙や本のようなドキュメントが、何か、或る規則的な構造を持ち得るという感触は、早くから多くの人が抱いてきていたに違いない。しかし、それらを標準的な一定の型に収めて取り扱うことが可能であるとまでは、まだ誰も考えなかった。この考えは、既存のドキュメントは、こう取り扱えるという考えをさらに押し進めて、ドキュメントは今後、このように扱うべきだとか、または、このような規則で書くべきだという考え、さらに甚だしくは、そうすれば、未来世界の文化はこのように発展するというビジョンにまで到達して行った。
 これは、並の人には決して思いつかないことだ。そこに非常に卓越した思考をする人がいたのだと思うが、その人にその生まれつきの能力を与えたのは神であり、かつ今この時代に、神はその選ばれる人に、天から啓示を与えられるのである。たとえその人がクリスチャンでなくとも、神はかつてネブカデネザル王を用いてこの世界を裁かれたように、異邦の民をもご自身の御業のために用いられるのである。
 この確信は重要だと思う。そう、すべては神のものであり、すべての知恵は神から来るという確信である。それに対して現代において、情報技術の多くの部分が実質的にキリスト教界に属さず、神を神とも思わぬ異邦人の財産のように信じられている原因は、私たちクリスチャンがそれらを自ら放棄または敬遠してしまっていることによるのだ。
 それゆえ私たちは今、改めて初歩の初歩から始めなければならない。すなわち、情報技術のすべては、神がご自身の栄光を表されるために、ご自分の民に与えられたものだと宣言し、それを自分たち神の民のものだと信じて受け取り、栄光を父なる神に帰することである。たとえ私たちが、情報技術に疎く、その能力も持っていないと感じることがあっても、まったく恐れる必要はない。まず神に必要な能力を与えてくださるように願い求めよう。神はそれを与えることがおできになる。そしてまた、情報技術者の魂を勝ち取ることを願い求めよう。彼らは、良心の中で、自分に今の能力を与えられたのは天の神であることを知っているはずなのだから。
 私は、このドキュメント概念の改革は、天から啓示されたものだと思っている。インターネットという新しい公共物の出現を計画しておられた神が、そこでご自身の栄光を表すための方法論を啓示されたのだと思う。この新しい概念は、このブログを読んでおられる方々の、まさにそのような方法で、世界中へ文書をダイナミックに発信することができる。その技術をフルに使えば、概念の構造を厳密に記述し、コンピュータによってその概念の中を巡り歩き、その概念に沿って物事を考え、多くの人が協力して同じ志を遂行して行ける可能性が与えられるのである。つまりこの新しいドキュメント概念は、文化や歴史、思想等を記述し、それをコンピュータの支援により、ビジュアルかつダイナミックに取り扱うためのものなのだ。しかし、それは未来社会をロボットの手に売り渡すためのものでは決してない。その目的は、第一に、言語の乱れにより互いに通じあわなくなってしまった人々の間のコミュニケーションの回復、第二に、言葉を基礎として構築されて来たことから、言葉と共に曖昧になってしまっている諸概念の先鋭化、第三に、神を第一とする新しい文化の構築である。これらを実現するために、言語を超えたドキュメント概念の再構築が必要なのだと思う。しかし反対にこれを悪用すれば、これまでの概念を改悪して、社会全体を悪い方向へ持って行くこともできるだろう。すでのその傾向は現れているように思う。Google等の検索エンジンにもその可能性は含まれている。例えば、或る人がGoogleに「神」と入力したときに、どのような神が上位に表示されるかによって、人々の神概念が大きく左右されてしまうことになるだろう。そして、現状では、Googleがどのような論理で、検索結果を出しているのかは、詳しくは誰にも分からないのだ。
 私たちクリスチャンは、今こそ情報技術が人の概念構造に与える影響力を知り、それを良い方向、すなわち神の栄光が現される方向に向ける戦略をとる必要がある。まず、神に願い求めようではないか、恐れと恥じらいを捨てて。ダビデがゴリアテに向かって行ったような心を今与えてくださいと願い求めよう。すべては、そこから始まると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年6月6日 | トップページ | 2007年6月8日 »