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2007/06/01

従う信仰

サムエル記上 第27章

 ダビデは思った、「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを探すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。」ダビデはサウルを避けて、ガトの気さくな王アキシュの元に身を寄せた。彼は、サウルが戦いで死ぬまで待とうと思ったのだろう。
 アキシュはダビデに一つの街ティクラグを与え、ダビデはそこに住んだ。それからダビデと彼の兵は、シュルからエジプトの地に至る地方に住んでいたゲシュル人、ゲセル人、アマレク人を襲っては、男も女も皆殺しにし、財産を略奪したりしていた。しかしダビデはアキシュに、イスラエルの中のネゲブの街々を襲っていると嘘をついていたので、アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。
 この時代には、ヒューマニズムというものはなかったのだろう。民族同士で殺し合い、奪い合いをすることが普通に行われていたようだ。だから、このころのダビデを見て、「彼は急にどうしてしまったのだろう」と思っていぶかる必要もないのかもしれない。この時代には、絶対的な倫理観というものがなかったのだ。だから、ダビデやサムエルにとって神に従うということは、何か崇高な倫理観を神からいただいて、それを追求するという意味ではない。もともとキリスト教には、そのような倫理観は無縁なものなのだ。そしてそれは、イエス・キリストが来られた後にも変わってはいないと思う。私たちは、イエス様から、何か崇高な倫理を教わって、それに従って人生を美しく生きるのではないのだ。私たちはただ、イエス・キリストという王に従うだけなのだ。それは、このサムエル記の時代に、アビシャイがダビデに従ったのとまったく同じなのである。もしそうではなく、私たちが、聖書から何か自分なりの倫理観を掴み取ってそれに従って生きるならば、主イエスは、再び私たちに無用なものとなってしまうだろう。
 今日の私たちは、ともすると何かちっぽけな、そしてけちな倫理観に支配されているような気がしてならない。なぜなら、他人を蹴落としてまで出世しよう、良い大学に合格しようという輩が多いからだ。それから、他人よりかっこよくなりたい、他人から良く見られたい。人並み以上の生活をしたい、人にうらやましがられるような生活を目標としたい、等々、なんと自分勝手な、ちっぽけな人生観がまかり通っているのだろう。しかしその影で、わずかな賃金で延々ときびしい労働を強いられている子供たちや貧しい人々が世界に多くいると聞く。また、私たちがお茶を飲んでいる間にも戦争の犠牲になっていく人々もいる。また、そのような社会矛盾の狭間で、死を選択するたくさんの人々が日本にもいる。これでは、ダビデの時代に民族が民族を略奪していたこととまったく同じではないか。だから私は言いたい。この時代の私たちに人生を強く生きさせる力は、アビシャイのようにダビデに従うこと、そしてダビデのように雄々しく神に従うこと意外にはないのだと。

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