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2007/05/30

勝利の予感

サムエル記上 第26章

 ジフ人がサウルのところに来て、ダビデの居場所を知らせたので、サウルは再びイスラエルの精鋭3千人を率いて出陣した。ダビデは、サウルが追ってきたことを斥候を出して確認した。ダビデはこのとき、不思議な感覚を覚えたに違いない。そう、夢の中で夢に気づくときのような感覚である。それはまた、知らない道を歩いているときに、なんだか過去にそこを通ったことがあるような感覚にも似ている。
 神はしばらく前に、あの洞窟の中で、すでにサウルをダビデの手に渡されたのだった。そのときサウル自身がダビデに「お前は必ず王になり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」と言ったのだった。
 ダビデはいつしか、部下も伴わずに、一人サウルの陣営に偵察に来ていた。すると、サウルは幕営の中で寝ており、兵士はその周りに宿営していた。ダビデは、神がサウルを自分の手に渡されたことを確信し、陣営へ取って帰り、「サウルの陣地に、わたしと下って行くのは誰だ」と叫ぶと、ツェルヤの子アビシャイが、恐れずに、「わたしがあなたと行きましょう」と答えた。このアビシャイこそは、神がサウルをダビデの手に渡されたという確信をダビデと共有する器であった。この呼びかけと応答の意味は、ダビデとアビシャイだけが知っていた。これが勇者のやり方なのである。それが分からない者は、腰抜けであり、王と共に勝利者になることはできないのだ。
 私たち主イエスに従う信仰者は、すべてに勝利された主イエスと、このアビシャイのように勝利の確信を共有するものであるべきだ。日常生活の中で、あるいは会社で、学校で、家庭で、主イエスが、「私と共に出て行って、勝利するものはだれか」と叫ばれるのが聞こえたならば、「私があなたと行きましょう」と恐れずに言う者になりたい。
 ダビデとアビシャイがサウルの陣営へ行ってみると、果たして、主から来る深い眠りがサウルの陣営を包んでおり、サウルとその第一の部下アブネルは、幕営の中で眠り込んでいた。ダビデとアビシャイは、サウルの槍と水差しを盗んで陣営に戻った。ダビデは言った、「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。」

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新しい時代

サムエル記上 第25章

 サムエルが死んだので、全イスラエルは、集まって彼を悼み、ラマにある彼の家に葬った。祭司を中心としたイスラエルの体制は、完全に終わりを告げ、王を中心とした新しい体制に移行した。
 これは、主イエス・キリストを象徴するものだ。祭司を通して、神に直接仕えていたイスラエルに、神と民の間に入る祭司ではない人間が与えられたのだ。彼は、位置づけとしては祭司的なところもあるが、彼が行うのは、祭儀ではなく、この世界の個々の状況に関する裁きであり、政治なのである。そして、その政治の中に神の御心が行われ、神のご計画が実現して行くのである。
 マオンというところにナバルというならず者が住んでいた。彼の牧童たちは、野原でダビデの兵たちの世話になっていたが、ナバル自身はそれを知らず、彼が育てた羊の毛を刈るころに、ダビデはその収穫と共に彼を祝福しようと部下を遣わしたが、彼は「ダビデとは、エッサイの子とは何者だ。私のパン、私の水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」と言った。
 人の世話になっておきながら、その恩義に仇で報いることは、この社会では許されざることである。それをこの世界は、取り引きの倫理で裁こうとする。しかしそれは本来、神との関係で裁かれるべきものである。その意味で、神がイスラエルに王を与え、それにより確立しようとされた正義と公正は、この世界の社会倫理とはまったく異なるものである。ダビデがナバルのところへ遣わした下部たちがダビデの元に帰り、一部始終を告げたとき、ダビデは「各自、剣を帯びよ」と言ったが、そのときダビデは、この社会の倫理でナバルを裁こうとは思っていなかった。彼は徹底して、神の倫理により、すなわち信仰により、王としての裁きを行おうと出て行ったのである。そして、行く途中でナバルの妻アビガイルと会い、彼女からなだめの贈り物を受け取り、彼女の献身がナバルの罪を覆ったことを宣言した。
 王としてのダビデを見て、私たちはもう一度、自分とイエス・キリストとの関係を学ぶ必要がある。イエス・キリストは、私たち信じる者の王であるが、彼は私たちの中で、祭儀を行う方なのではない。彼は、ダビデのような王なのである。そこで、彼が行うのは、命令であり、裁きなのである。私たちは、イエス・キリストを主と呼んで、何か神に関する知識をいただき、神のことをあれこれ考えるのではない。主イエスに従うことにより、この社会で神の御心を行うのである。

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