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2007/05/25

聖と俗

サムエル記上 第21章

 ダビデは新月祭の3日間、野原に隠れていた。その間、何も食べなかったのだろう。サウルの食卓に連なれば、おいしい食事が用意されていたのだろうが、自分の命を守らなければならない状況であった。そして、その後にヨナタンから、予想通りの悪い知らせを聞くことになったのだった。
 ダビデは、ヨナタンに礼を言い、ただ一人、逃避に旅だった。どこへ行くという宛もない旅が始まった。彼の心の中には、大いなる疑問が渦巻いていただろう。サウルは、なぜ自分を殺そうとしているのか。あのペリシテの巨人ゴリアテと戦い、イスラエルを救ったことは、正しくないことだったのか。ダビデの心に、様々な明暗が渦巻き、彼を押しつぶそうとしていた。それは丁度、あのゲッセマネのキリストの苦しみのようであった。キリストは、罪がまったくなかったゆえに、そのような方が罪を負って苦しむというその自己矛盾の深さは、どれほどだっただろうか。
 心の聖い人、ダビデのような人には、心に迷いなど起こらないに違いないと凡人は推測する。しかしこの地上で、どのように完全な人にも誘惑と試練はやって来る。そして、その巨大な重圧の前には、人は一たまりもなく押しつぶされてしまうのである。
 ダビデは、三日間も食事をしていなかったのだから、ヨナタンと分かれる前に、彼に食物をねだればよかったのかもしれない。しかし、ダビデとヨナタンの一点の曇りもないような純粋な友情は、そのようなことを二人のどちらにも思いつかせなかった。ダビデを暗闇に放り出したのは、サウルの殺意だけではなかったのかもしれない。ダビデも人の子であったゆえに、自分が聖さにあずかるとき、その火で自分自身の身をも焦がすことになったのかもしれない。いずれにしても、ダビデは一人で歩き続け、いつしか祭司アヒメレクの家にたどり着いていた。彼は、アヒメレクにパンを5つねだった。アヒメレクは、ダビデの形相を怪しんだが、彼のたくみな言い訳にだまされ、パンと剣を与えた。しかしダビデは、いつまでもそこにいるわけにはいかなかった。アヒメレクの元には、サウルの家臣であるドエグというエドム人が身を寄せていたからだ。
 ダビデは、アヒメレクのところを出て再び歩き続けた。いまや彼には、このイスラエルのどこにも安心できる場所はなかった。どんなところにもサウルの家来がいて、ダビデの居場所をサウルに告げるからだった。彼はこのままでは、永遠に歩き続けなければならなかった。彼の思いの中の矛盾は、ますます大きくなっていった。神と王への彼の忠誠とその結果の間の矛盾である。いまや彼は、イスラエルを出て行くことに平安を見出さざるを得なかった。そのようにして彼は、ガトの王アキシュのところに身を寄せた。しかし今度は、アキシュの家臣たちがダビデを知っていた。ダビデはアキシュを非常に恐れ、アキシュの前で気違いを装わざるを得なかった。

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だれに向かって祈るのか

 正統派キリスト教は、三位の神をいただいている。すなわち、「父なる神」、「子なるキリスト」、「聖霊なる神」である。そして、これらは共に神であると教えられている。一つの神に三つの位挌があるのである。しかし、この三位一体は、クリスチャンにとっても決して理解しやすい概念ではないばかりか、人間の思考では考え難い概念ではある。
 もっとも切実な問題の一つに、だれに向かって祈るのかということがある。私は、「父なる神」に向かって祈れと教えられてきた。しかし、それでは、イエス様に向かって祈ってはいけないのだろうか。教会学校で子供たちにイエス様のことを教えているときに、子供が「イエス様、アーメン」と言って祈っているのを、「きみきみ、イエス様はお祈りの対象ではありませんよ」と言ってたしなめる気にはとうていなれない。私は、ずっとこのことで悩んできた。しかし、このブログを書きながら、いろいろ考えてみて、最近では、次のような結論を出している。
 すなわち、私たちも子供たちも、イエス様に向かって祈って良いのだと。もし私たちがイエス様に向かって祈れば、イエス様はそれを聞いてくださり、父なる神様にとりなしてくださる。すなわち、私たちが祈ったことをもう一度イエス様の口から父なる神様に伝えてくださる。だから、それは二段階の伝達になる。でもイエス様はこうも言われた。「あなた方は、私にお願いしないで、自分自身で天の神様にお願いしていいのだよ」と。「でも、イエス様。それはとても畏れ多くてできそうにありません。やっぱりあなたにお願いするのが一番楽です。でも、何か良い方法があるのでしょうか。」するとイエス様は言われた、「それでは、私の名前を使いなさい。私の名前を出して祈れば、父なる神様は必ずその祈りを聞いてくださいますから。」

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関係

サムエル記上 第20章

 サウルに命を付け狙われていたダビデは、逃亡先から帰ってきてヨナタンに助けを求めた。父サウルを信頼していたヨナタンは、ダビデの言うことが、信じられなかったが、父と話し合って事の次第を調べることをダビデに約束した。
 ときに、次の日は新月祭であった。ヨナタンは、一つの賭けをした。彼は考えた。「ダビデを逃がして、彼が新月祭の食事に来ないことを父サウルにだまっていよう。そしてもし父が、ダビデの欠席に気づいても、私がそれを前もって伝えなかったことを気に止めなければ、父は私を信頼していてくれると共に、ダビデを憎んではいないのだろう。しかし、もし父がこのことで憤慨するようなことがあれば、父はダビデを殺そうと思っており、そのことについては、私にも知らせる気はなかったのだ」と。
 この世界には、人と人の間の様々な関係が存在する。例えば、サウルとヨナタンのような父と子の関係、サウルと家臣のような上下関係、そしてダビデとヨナタンのような友情関係等がある。しかし、これらはこの世界の条件や状態に基づく関係である。そこで、それらの関係は、この世界の条件、状態に依存しているのであり、それらの条件が崩れれば、そこに成立していた関係もまた危機にさらされることになる。サウルとヨナタンの父子関係もそのような状況の中で、正に危機にさらされていたのであり、サウルとダビデの間の敵対関係がそのような状況を作り出したのであった。
 ヨナタンが自分に無断でダビデに帰省許可を与えたことを聞いたとき、サウルは激怒し、槍でヨナタンを刺し殺そうとした。恐怖とそこから来る憎しみがサウルの心を占領していたのであり、他のどのような関係もそこに入る余地はなかったのである。
 しかし、ヨナタンは父の脅迫には屈しなかった。彼の中には、新しい関係が生まれ、そして急速に成長していたのである。それは、ダビデとの信仰の関係である。この関係の前では、いかなる恐怖や憎しみも何の力もない。この関係の源は、万軍の主イエス・キリストであり、そこには常に、彼の愛と主権の麗しさが漂っているのである。

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