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2007/05/22

対戦

サムエル記上 第17章

 ペリシテ人は、イスラエルと戦うためにエフェス・ダミムに陣を張った。イスラエルも彼らと戦うためにエラに陣取り、これら二つの軍隊は、谷を挟んで睨み合っていた。ペリシテ軍は戦車や鉄の武器をたくさん持っていたが、イスラエル軍はたぶん十分な武器を持っておらず、ペリシテ軍もそのことを認識していたに違いない。それなのになぜ彼らはあたかも対等であるかのようににらみ合っていたのだろうか。それは、ペリシテ人がイスラエルに神がおられることを知り、恐れていたからだ。この神が、イスラエルを大国エジプトから導きだし、葦の海を枯らし、諸国を滅ぼされた方であることを伝え聞き、恐れていたのである。おそらくこの全能の神への恐れこそがイスラエルをペリシテ人の侵略から逃れさせていたのだった。実際、ペリシテ人はイスラエルから畑の収穫を奪うために昇ってくることはあっても、イスラエルを完全に侵略してしまうことはなかったのであり、彼らは言わば、イスラエルの神のご機嫌を伺いながら立ち回っていたのであった。すなわち、ペリシテ軍の武器は鉄であり、イスラエル軍の武器は全能の神であった。しかしこれら二つの武器は、見る者の立場によってそのバランスが著しく変化する。この世に望みをかける者にとっては、鉄は万能の力であり、それに比して神はなにか頼りない存在である。しかし信仰に堅く立つものにとっては、神の前では鉄の武器は何の役にも立たないものとなる。
 かくして、ペリシテ軍とイスラエル軍は、谷を隔ててにらみ合っていた。するとペリシテ軍は、彼らの最高の戦士を繰り出して来た。それは、見るも恐ろしい巨人であり、ペリシテの象徴である鉄でできた重い鎧を身に付け、鉄の槍と鉄の盾を持っていた。その怪物は、彼らの神々の名によってイスラエルを呪った。するとイスラエルの兵士たちは、みな恐怖の内に戦意を失った。この世的な力の源泉は、恐怖である。恐怖を前に、人は存在価値を見失う。もはやそこには、何の可能性も残されていないかのように思われるから。それは、自分に想像できる力だけに依り頼んでいるからである。
 しかしダビデが依り頼んでいた力は、実に無尽蔵の力、全能の神の力であった。彼は言った、「この戦いは、主の戦いだ。」それは、自分以外の力により頼むという他力本願的なものではない。それは、その無尽蔵な力が、自分を通して働くという信仰、インマヌエルすなわち神共にいますという信仰なのだ。キリスト者の信仰が、ただキリストの言葉をありがたく唱え、それに従って慎ましやかに生きるだけだったら、それはこのダビデの信仰とは異なり、人生で遭遇する幾多の困難の中に、意気消沈し、戦意喪失してしまうかもしれない。しかし、困難に遭遇するとき、全能の神の力が自分を通して働くという信仰を持っているなら、その人は、立ちはだかる困難に、このダビデのように向かって行き、それを神の力により克服し、多くの人を救いに導くことができるだろう。

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