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2007/05/21

準備

サムエル記上 第16章

 サウルは、神から与えられた復帰のチャンスを逃してしまい、神は彼を王位から退けられた。サムエルは、サウルのことを嘆いたが、神は、イスラエルの王制を終わらせることはなさらず、新たな王を与えられた。その人は、血色が良く、目は美しく、姿も立派であったが、サウルのようなリーダ的な印象を与える人ではなかった。サムエルは、主の命令通り、このダビデに任職の油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。主の霊が降るとき、その人は別人のようになる。ダビデは、そのことを理解していなかっただろう。ただ彼が得た、野の獣や獅子をも倒すものすごい力が、主から来ることは認識していたに違いない。そして、ダビデは生まれつき主の霊をうまくコントロールする素質を持っていたようだ。「主の霊を制御する」というと、一見高慢な印象を与えるかもしれないが、カリスマの信仰によれば、聖霊は人格であるとともに、私たちにとっては一つの得体の知れない力でもあり、注意していないと人はその力に振り回され、異常な行動をとることになる。人が聖霊に満たされながらも、自分の行動に十分な配慮を保つためには、成熟した信仰が必要なのである。つまり「主の霊を制御する」とは、聖書が言っているような「預言者の霊は預言者に服従する」(第一コリント14:32)という意味であり、自分を制御することにより聖霊に振り回されなくなる、すなわち主の霊を制御するという意味である。また、神ご自身が御子の降臨と苦難を許され、この罪の世で一時的にせよ人の支配に任せられたことをも想起するとき、人はそのようなことを驚嘆の内にも受容し得るかもしれない。いずれにせよ、神はご自身の霊をダビデに与え、彼の心身の内に住まわれ、彼と生活を共にすることを意図されたのであり、ダビデはそのような状態に対処する秘訣を生まれながらに持っていたと私は思う。しかしサウルはそうではなかった。彼は預言の霊が来たときに、夢うつつ状態になり自分を制御できなくなってしまった。そのような彼は、霊的な指導者としては、最初からふさわしくなかったのだろう。それではなぜ、神はそのようなサウルを最初に王として立てられたのか。それは、サウルのような卓越した容姿の人にさえ、「あのような者が我々の王になれようか」と言うものがイスラエルの中にあったのだから、ましてダビデのような紅顔の美少年が最初から王に立てられたら大混乱になっていただろう。そこで、神は民に、イスラエルを治める王は、サウルのようなタイプではなく、実は霊的な指導者でなければならないことを示されたのだと思う。サウルが倒れたことにより、ダビデが立てられる余地が生まれたのである。そしてダビデこそがイスラエルの霊的な指導者にふさわしい人だったのだ。このことはサムエルにも理解できなかった。サムエルは神と親しく語り、御心を知り、それを行うことを知っていたが、神の霊を制御する力については知らなかったのである。そこで神は、サムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 その点で、ダビデはサムエル以上の器であり、まさにイエス・キリストの父なのである。
 主はサウルから主の霊を取り去られ、悪しき霊が襲うに任せられた。サウルの中に、サウル以外の霊が住まう余地ができていたために、主の霊が取り去られた後の彼の魂は、悪霊の住まいと化したのであった。
 サウルの家臣は、竪琴を上手に奏でる者を彼のそばに置くことを提案し、ダビデを見つけ出してサウルに仕えさせた。悪霊がサウルを襲うとき、ダビデが竪琴を奏でるとサウルの心は安まり気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。神は、すでに任職の油を注ぎ、主の霊を注いだダビデをサウルの元で一定期間仕えさせることにより、ダビデに王の生活を見せると共に主に背く王の末路を見せて、やがて必要となるであろう知識を与えられたのだと思う。

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