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2007/05/19

いい加減な献身

サムエル記上 第15章

 神はサウルに、アマレク人を滅ぼし尽くせと命じられた。それは、彼らがかつてイスラエルに対して犯した罪に対する裁きであった。神はなぜ、相応しくない供え物をしたサウルになおも語られ、命令を与えられたのだろうか。私は、神がこのときサウルを試されたのだと思う。もしサウルがこの試みに応え、神の前にふさわしく行動したなら、神はサウルの以前の罪を赦そうと考えておられたのだと思う。神は、非常に哀れみ深いお方であり、人の罪や失敗を赦し、彼に新しいチャンスと成長の機会を与えられるお方なのである。
 サウルは、イスラエル中から21万人の兵を招集して、意気揚々とアマレクに向かって出陣した。彼は、カイン人がアマレクと共に滅ぼされることを気遣う余裕すらあった。そして、神の助けによりアマレクを打ち破ったが、アマレク人が持っていた上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした。
 サウルが凱旋したとき、そのことでサムエルがサウルを責めると彼は言った、「私は主のご命令を果たしました。」彼は、本当にそのように思っていたのだろうか。私は違うと思う。彼は、心の中で自分が主の前に正しいことを行っていないことを理解していた。サムエルがさらに追求すると彼は、「私は主の御声に聞き従いました。主のご命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」
 ああ、今日でも、このように物分りの悪い人がなんと多いことか。自分の人生を自分の考えで歩いている人。生まれてからずっとそのように生きてきてしまったので、もう自分のやっていることの意味すら良く分からなくなってしまっている人々。彼らは強情で、決して自分の非を認めようとしない。それがどのような恐ろしい心から出てきた考えなのか、彼らは知らないのだ。
 サウルの返答は、サムエルには何の効果もなかった。彼は、サウルのそのような言い訳とはまったく関係なく、ただ主の裁きを語るのみであった。サムエルは宣言した、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす捧げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に、高慢は偶像礼拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる。」 神の前には、人の巧妙な言い訳やりくつは、何の力もない。神は、すべての人の心の中をごらんになっておられるからである。サウルは言った、「私は、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。どうぞ今、わたしの罪を赦し、わたしと一緒に帰ってください。」しかしサムエルには、そのような懺悔の言葉も、何の意味も持たなかった。「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。」
 サウルはサムエルに、兵士たちの手前、自分と共にギルガルへ帰って欲しいと嘆願した。サムエルはサウルと共に帰ることにした。サムエルにとっては、もうそれはどうでも良いことであった。彼はサウルに対する裁きをすでに宣言したのだから。しかし、どうでも良くないことが残っていた。サムエルはサウルに命じた、「アマレクの王アガグを、わたしのもとに連れて来なさい。」サムエルは、主の前にアガグを切り殺した。
 それはどうでも良いことではなかった。サウルに裁きを言い渡し、戦利品をすべて滅ぼしつくすことを命じ終わったサムエルにとって、次に行うべきことははっきりしていた。彼の心には、ただ主の命令を守ることだけがあった。サムエルが主の前に切り殺したアガグとはなんだったのか。それこそが、私たちの内のいい加減な献身の思いなのだ。

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勝利の奇跡

サムエル記上 第14章

 ペリシテ軍は、イスラエルと戦うために結集し、いよいよミクマスの渡しまで進んできていた。サウルに従う兵は皆、サウルの後ろでおののいていた。
 しかし、ヨナタンだけは別であった。彼には、それらの窮境は、いっさい関係がなかった。神を信じる者にとって、状況はいっさい関係がない。信仰は、いっさいの状況とは関係のない、遥かに高いところにあるのである。たとえ私たちの日常に、私たちの存在を脅かすようなことが突然に迫ってこようとも、神を信じる者の目は、それらとはいっさい関係のない、遥かな天を仰ぎ見ているのである。ヨナタンは一人の従者に、自分の武器を与えて言った。「さあ、渡って行き、向こう岸のペリシテ人の先陣を襲おう。」彼の信仰には、武器は必要なかった。彼は神に一つのしるしを求めた。それは、自分が切り立った崖を登ることになるかどうかというものであった。両手を使って崖を登ること、すなわち敵を前にして、考えられるもっとも不利な状況に陥ることこそ、神が自分に勝利を与えられるしるしであるとしたのであった。
 ところで少し考えてみたい。聖書が書かれたのは、いったい何のためだったのか。それは、現代を生きる私たちが、みことばにより、神に従って生きるためである。だから、今ヨナタンを読んでいるあなたが、「ああ、ヨナタンはすごいなあ」と言うだけなら、聖書は何の役にもたたない。なぜなら、聖書を読むとき、あなたはヨナタンでなければならないからだ。ヨナタンを読んでしまったあなたが、もしヨナタンに成れないならば、聖書に書いてある救いと恵みと平安があなたにやってくることもまたないだろう。あなたがヨナタンになったときに、初めて聖書に書かれている勝利があなたのものになるのであり、主イエスの救いと恵みは、あなたにそれが可能となるために与えられたのである。
 ヨナタンは言った、「わたしに続いて登って来い。主が彼らをイスラエルの手に渡してくださるのだ。」ペリシテ人たちはヨナタンの前に倒れ、ペリシテ軍は大混乱に陥った。ペリシテ陣営の混乱はますます広がり、反対にイスラエル陣営は結集し、大勝利を得たのだった。これが神の業である。それにしても、イスラエルはどのようにして勝利したのだろうか。しかしそれは、だれにも説明することのできない方法であった。イスラエルは、「私たちはこのようにしてペリシテ軍をやっつけた」ということができなかった。彼らのできたことは、ただ主の御名を褒め称えることだけだったのだ。これが神の業なのである。神は、私たちの人生にも同様にして勝利を与えられる。しかしその勝利がもたらされるとき、勝利したのは私たちなのだが、私たちは、どのように勝利したかを語り伝えることはできない。それは、人の理解を超えているからである。神のもたらされる勝利に対して、私たちができることは、ただただ、神への感謝と賛美だけなのである。

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試練

サムエル記上 第13章

 サウルは、即位して一年でイスラエル全体の王となり、イスラエル全域から三千人の兵を徴収し、自分と息子ヨナタンの元に配備した。これはたぶん、防衛軍のようなものだったのだろう。なぜなら、彼らは剣や槍さえ持っていなかったのだから。それに対して、ペリシテ軍は、戦車3万を所有する、数えることもできないほどの数だったのだ。サウルは、ペリシテ人にあえて戦いを挑む意図は毛頭なかったのだろう。しかしあるとき、サウルの息子ヨナタンがゲバに配置されていたペリシテの守備隊に戦いを仕掛け、勝利してしまい、それが宣戦布告となってしまったのである。サウルは大変あわてただろうし、ヨナタンをたしなめたかっただろうが、即位したばかりの彼にとっては、これは試練であると共に、彼の王としての力量が試される局面でもあったのだ。
 それにしても即位1年にして、なんという大試練がサウルの身に降ってきたのだろう。しかしそれは、十分予想されたことでもあった。イスラエルは永年、ペリシテ人に良いように搾取され、実質的には支配されてきたのだから。そのイスラエルに王が即位したということになれば、ペリシテ人との争いは避けられないし、それなくしては、サウルは真の王となることはできなかったのである。
 サウルの心は乱れた。彼は、必死で信仰に踏み留まろうとした。彼は、神の人サムエルを待っていた。今やサムエルだけが頼りだった。彼が来たなら、イスラエルのために神にとりなしてくれるだろうから。しかしサムエルは、なかなか来なかった。サウルは待ちきれずに、自分自身で焼き尽くす捧げ物と和解の捧げ物を捧げてしまった。ああ、彼が神に聞くために、神の前に静まるということを知っていたなら。しかし、このときの彼が求めていたものは、神ではなく、神にとりなしてくれる人であり、また、神に聞くことではなく、神にお願いすることだり、また、神を信頼することではなく、神にせがむことであった。
 人は、困難な状況に直面したときに、自分がどのように神に相対していたのかを思い知ることになる。サウロは、イスラエルの王であったが、神を知っていなかったのだ。それでも彼が、イスラエルの王としてふさわしく振舞ったなら、彼の王位は続いていただろう。しかし、それは有り得ないことだった。人は自分以上のものになることはできない。そしてその自分とは、神をどれだけ敬愛し、信頼しているかということなのである。

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