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2007/05/13

召命

サムエル記 第10章

 サムエルは、サウルの頭に油を注ぎ、彼をイスラエルの王と宣言した。サムエルはまた、その日にサウルの身に何が起こるかを前もって彼に告げた。サウルはサムエルが言ったように、べテルに神を拝みに上る三人の男に出会い、彼らからパンを受け取った。また、預言者の一団に出会い、彼らと共に預言する体験をした。それらのことは、サムエルが預言した通り、一日の内にサウルに起こった。そしてそれらは、サウルが自分が神からイスラエルの王として召命を受けたことを自覚するためのものであった。
 ああしかし、これらの奇跡的なことがサウルに対して起こっても、そしてサウルがいかにそれに驚き、不思議に思い、思いを巡らし、自分の資質やこれまでの人生を省みて、自分に起こったことを重く受け止めたとしても、それらのことがサウルを変えるのではない。サウルを王にふさわしく変えるのは、神の恵みなのだ。そして神は、ご自身が持っておられ、サウルに与えることのおできになるすべてをサウルに注いで彼を祝福されたのだった。サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされたのであり、それは神がサウルになさることのできるすべてであった。
 しかし人が神の器となるためには、どうしてももうあと一つのことが必要になる。それは、サウルのように神が与えることのできるものをすべて受け取った後に、彼が最後に自分自身を変えるということである。そしてそのことは、彼自身の問題であり、全能の神にも、もうどうすることもできないことなのである。神が彼を様々な人に出会わせ、不思議な体験をさせ、自らが与えることのできるすべてを与えられたのは、ひとえにそれを与えられた彼が、それにより神を体験し、神の御思いを知り、神の声色を覚え、それらを通して、ある決定的なものを受け取るためなのである。それは、受け取るというより、彼自身が変革するとも言えるようなものであり、それは実に、神ご自身を受け取るということなのだ。このことなくしては、それまで彼に与えられた不思議な体験は、すべて何の価値も無いものに過ぎない。この神を受け取るということなくして、人は神に仕えるようになることはない。それではサウルは、これらのことを通して、神ご自身を受け取ったのか。それは、この時点では定かではない。ただ、サムエルが神の前に民を集め、部族毎、氏族毎、個人毎に前に進み出させたとき、サウルは荷物の間に隠れていたのであった。

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サウル王

サムエル記上 第9章

 神は、ご自身の民の求めに応えられ、異邦人と同じように一人の王を与えられた。その人は、12部族でもっとも小さなベニヤミン族のキシュの子でサウルと言い、美しくもたくましい人だった。イスラエルの中に彼のような人はいなかった。
 神は、サウルの父キシュのろばを道に迷わせられた。父の命令でろばを探しに出た先で、サウルは神の人サムエルに会い、彼からイスラエルの王としての召命を受けることになる。神は、サムエルに前もってすべてを啓示しておられ、サムエルはその通りにサウルに対して行い、彼をイスラエルの王として取り扱った。すなわち、彼を会食の上座に着かせ、神からの預言の言葉を告げた。
 神は、サウルをイスラエルの王として立てようとされていた。彼の前には、イスラエルに王はいなかった。そして彼からイスラエル国家は王国となり、多くの王が出てイスラエルを裁くことになる。しかし、神は王にイスラエルのすべてを任されたのではなかった。サウルが立てられた後もサムエルの役目は継続した。すなわち、彼は王に仕えながらも、神にあっては王の上に君臨し、王を主の名によって祝福し、ときには王をやめさせることさえしたのである。その意味では、イスラエルは依然として預言者が権力を持っており、その上に神がおられるという構造に変わりはなかった。ペリシテ人がせめて来ても、イスラエルの預言者が王に戦略をさずけ、ときには自ら先頭にたって、イスラエルを敵から守った。王と預言者、それはサムエル記、列王記を支配している勝利と栄光のハーモニーであり、それはダビデにおいて、さらに完全にはイエス・キリストにおいてみごとに調和しているのである。

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