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2007/05/07

エリの裁き

サムエル記上 第3章

 シロの祭司エリは、目がかすんで来て見えなくなっていた。年老いた彼は、主の神殿の仕事を若い祭司たちに任せてきていたのだろう。しかし、祭司であった彼の息子たちは、主の宮で悪の限りを行っていた。神は、エリの管理不行き届きを重く見ておられ、おそらく何度かエリに直接語られたに違いない。しかしそれは、啓示や公的な指示を与えられるときとは、たぶん違っていたのだろう。それは、エリ自身についてであったのだから。それゆえエリには、神のその細い御声が聞こえなかったのかもしれない。神は今日でも、そのような小さき細き御声で私たちに語られる。それを聞き分けるには、特別の心構えが必要なのだ。
 エリは、神の細い御声と自分の息子たちへのこの世的な愛情の狭間で、長らく躊躇していたのだと思う。そしてそのエリの態度は、事態を次第に深刻なものに変えて行った。あるいは、エリ自身も何度か状況のただならぬ雰囲気に気付き、当惑したに違いない。しかし、彼にはその状況に本気で取り組む心がけがなかったのであり、そのことがエリの罪であった。すなわち、神のために成すべきことに気付きながら、それを先延ばしし、怠ったことである。
 そしてついにある夜、全能の神が、主の宮で寝ているサムエルに呼びかけられた。サムエルには初めての経験だったので、それが神の声であることが分からなかった。実に神は3度サムエルに声を掛けられた。それが神の声であることに最初に気付いたのはエリであった。エリは祭司であり、神の声を聞く経験をしていたので、少年サムエルに呼びかけているのが神であることを悟ったのである。
 エリは、すでにこのとき、事の重大さに気付いていただろう。少年サムエルに神に聞く方法を授け、翌朝サムエルを呼んで、神の託宣を問い正した。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうことを行われるように。」エリは筋金入りの祭司であり、自分に対しても容赦なく裁きを宣告し、自らの行く先を省みることはなかった。彼にとって、主に従うことだけが生きる衝動であり、喜び、慰めでもあった。彼は、今でも神の声に、どこまでも従う器であった。
 しかしその彼がいま、皮肉なことに、神の大いなる裁きを自らに宣告することになろうとは。この世の誘惑、特に血筋に由来するものは、なんと大きなものだろうか。それに打ち勝つことができたのは、信仰の父アブラハムだけなのかもしれない。しかし世の人は、自分の子を生け贄にしようとする彼を狂気と呼ぶだろう。しかり、それはこの世的には狂気以外のなにものでもない。実にこの狂気に立てない者は信仰者とは言えない。信仰とは狂気である。もし、神が存在しないならば。そして、神ご自身が愛する一人子において、自らその狂気を実践されなかったとしたならば。

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