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2007/05/01

キリストの十字架がなぜ私の罪を購うのか

 私が会ったことも話したこともないイエスという人が私の代わりに十字架に架かり、私が受けるはずの罰を受けてくれたので、私は自分の罪を赦されて天国へ行けるのだという。これほど不合理な話があるだろうか。この世界の論理では、私が犯した罪は私自身が償わなければならない。社会はそれほどきびしいものだ。クリスチャンが信じているところのキリストの身代わりの死という考えは、なんと曖昧で甘っちょろい考えだろうか。
 しかし、ここに一つの疑問が湧き起こる。それは、社会的通念としての刑罰で、本当に罪が償われたのかということである。社会が(みんなが)そのように決めたのだから、それがルールだから、それで罪が償われたとすべきであるとか、するしかないとか、そういうのが社会の考え方である。しかし、その罪が例えば殺人だとしたら、殺された人の肉親の苦痛はどんなだろう。たとえ犯人が極刑に処されようとも、その心は決して癒されないに違いない。それでも、刑期を終えた元犯罪人は、堂々とではないにしても、速やかに社会に復帰して行くことになる。彼自身も自分の人生を台無しにしながら、それでも被害者の赦しを得ることはできない。法律とはなんと不完全なものだろう。また、それが与える罰により罪を償ったとするのは、法律を盾にしてその影に隠れて、自分を正当化することにはならないだろうか。
 罪とは、そのように重大なものであり、一度罪を犯したなら、もうどうしようもない。彼は死ぬしかない、というのがキリスト教の考えである。たとえ万引き、それも100円のチョコレートを盗むようなことでも、社会では窃盗罪となり罰せられる。しかし神の御前では、それは実に死に至る罪なのである。その人はもう天国へ行くことはできない。天国には警察などないからだ。そのような人が天国に入ったら、もう大変なことになる。天国には、心が完全に清い人しか入れない。そして、天国に入れないということは、永遠の死を意味するのである。
 これは、御伽噺だろうか。いや御伽噺をしているのではない。天国には、実にこの世界にあるようなものは何もないのだ。というのも、誰も皆、何も持たないでこの地上を去るのだから。かれの生前に持っていたもの、考えたこと、それらはみなこの地上に残されたままではないか。私たちは、目を覚まして、自分の死後のことを良く考える必要がある。あるいは再びこの地上に生まれる、などということがどれほど合理的と言えるのかということを。
 もしたった一つ、罪の刑罰から救われる方法があるとするなら、それは、人がまったく新しく作り変えられるということである。罪が無かった、生まれたばかりのような心に。しかしそれは可能だろうか。否、それは有り得ない。この地上の社会の通念では。いくら考えても、努力しても、決心しても、誓ってもだめなものはだめである。なぜだめなのか。そのように行おうとしているのが罪を犯してしまった「あなた」だからである。そのような「あなた」には、自分を救う力はないのだから。
 キリスト。このお方を信じ、すべてを明け渡すしかないのだ。他にはいない。他の人ではだめなのだ。なぜなら、他の人はみな「あなたがやりなさい」と言っているのだから。「私がやろう」と言ったのは、キリストだけだから。彼は、「私が生きよう」と言って、天の御座から降り来り、人となられた。「私が死のう」と言って、あなたの罰をその身に負って死なれた。そして「私が生きよう」と言って、死から甦り、あなたが再び生きることの保障を与えられた。キリストを信じなさい。そうすれば救われる。

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