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2007/04/27

生命の水

エゼキエル書 第47章

 エゼキエルは神から、神殿とその周りの聖域、聖なる都、12部族への斯業としての土地の割り当てに至るすべてのことを示された。神は今こそついに立ち上がられる。失われていたイスラエルの栄光が、ついに再び取り戻されるときが来た。そのときには、神殿において、毎日規則正しく祭儀が施行され、絶えず犠牲が捧げられ、祈りが立ち上り、民と君主は安息日毎に聖なる都を訪れ、その門は閉じられることがない。これらの懐かしくも新しい営みがまもなく始まるだろう。エゼキエルは、そのように確信していたことだろう。
 しかしそうではなかった。エゼキエルが聞いたのは、神殿で仕える祭司の衣装の衣擦れの音でも、またそれに付けられた鈴の音でもなく、民のどよめきでもなかった。みよ、それは水の音であった。それは、祭壇の下から湧き出て、東の門を避けて一旦神殿の南へ流れ出て、南壁の下を通って再び東へ流れて行っていた。
 御使いが計り縄を手繰り出しながらで500mづつ東へ行くと、川の深さは踝、膝、腰へと増えて行き、ついに泳がなければ渡れないほどの豊かな流れになった。御使いが彼を岸へ連れ戻すとそこには、いつのまにか、たくさんの果樹が茂っていた。
 これは幻である。ちょうど夢の中でそれと気づくようにして、エゼキエルは気づいたに違いない。これは、未来に向けた幻であり、神の世界的なご計画に関するものである。その日、イスラエルの神の元から、生命の水が湧き出で、それが遥か東の方、すなわち異国の方へも流れて行く。神のいのちが世界に満ち溢れ、様々な実を結び、見たこともない民族が救われて神に帰依し、イスラエル民族と共に世界を相続する。この幻には、神殿はあるがそこで礼拝する人はいない。それは、主イエス・キリストにおいて成就した。主は言われた。「あなた方がこの山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する日がくる」と。しかし、再びこの都で礼拝がささげられるときが来る。それは、ヨハネの黙示録に書かれている。「神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。」と。しかしそのときも神殿は空なのだろうか。たぶんそうなのだろう。この神殿は、もともと神が造られた私たち人間の心の構造なのかもしれない。


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