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2007/04/26

ヨハネの福音書(第7章:啓示の秘匿性)

 キリスト者の中には、イエスの教えや思想には価値があるが、イエス自身が果たして実在したのかということについては、さほど重要ではないとする人もいるようだ。しかしブルトマンは、イエスという人間が歴史上に確かに実在し、人を救う決定的な天からの啓示は、彼により歴史上のある特定の時点において、世に与えられたのだと主張するのである。
 主イエスご自身も、その公生涯において、自分が天の父から遣わされた者であるという明確な認識を持っておられた。それゆえ彼は、自分自身が啓示者であるということよりも、ただ父が自分を遣わされたことを強調されたのであった。
 つまり、主イエスが宣べ伝えていた啓示は、この世の賢人が追求している類の普遍的な真理などではなく、かつて誰もそのようなことを考えようとしたことさえなく、またこれからも決してないであろう真理、まったく一方的に天から啓示されたものなのだという。しかも、この啓示は、歴史の中では社会通念から隠されており、世の人がその重要性、妥当性を自ら認識し、それを追求するというようなことの起こり得ないものなのである。それゆえ、当時の律法学者たちは、この啓示が真理であることを認めず、その啓示者としての主イエスを排斥しようとしたのである。
 そこで、この啓示を受けるための絶対条件が、主イエスという啓示者に出会うことなのであり、それを逸すれば、他には啓示を受ける機会はもう残されていないということなのである。
 それでは、この啓示に出会う機会は、歴史の中にただ一回のみ与えられたもの、すなわち、その時代に向けてのみ語られ開示されたものなのであろうか。ブルトマンによれば、そうではなく、この啓示は今日においても、福音が宣べ伝えられるそのとき、説教された言葉において、彼自身が世への語りかけとして、その都度、歴史の流れの中の限られた今において現在化されるのであるという。
 そこで私たちは、今キリスト者として、世に何か有益なメッセージを送ろうなどと考えるべきではない。そうではなく、求められていることは、ただただ、宣教の言葉によってキリストが、現在というこの歴史の一点において、その場に臨まれ、歴史におけるあの決定的な出来事が、今また再び、ここに生起するということなのである。

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