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2007/04/23

聖さの体系

エゼキエル書 第46章

 内庭の東向きの門、これは主ご自身が通られた門であり、通常は閉じたままにしておかれるが、安息日と新月の日には、イスラエルの君主たちのために開かれる。君主たちはその日、各々自分が治める民を代表して犠牲をささげ、主を礼拝する。その日君主は、神殿の門の敷居のところまで入ることを許される。この君主は、神によって立てられた権威であり、上記のような特別な日の礼拝における権威である。しかし彼は普段の日においては、民と共に北か南の門から出入りする。
 この新しい社会には、人の定めた権威は存在せず、すべての権威は神のためにあり、すべての区別も神のためにある。その目的は、聖と属を区別することにある。そのために毎朝、無傷の小羊が犠牲として献げられなければならない。この地上で神が聖とされるためには、そのような耐えざる犠牲が必要となる。永遠の世界における神の栄光は、このはかない有限の世界においては、貴重なものの喪失という形態を取らざるを得ないのだろう。だから、犠牲も殉教もこの世においては、不条理な感覚の中にも、何か神々しい後味を醸し出しているのだろう。
 御使いはエゼキエルを門の傍らにある入り口から、北に面した祭司の聖なる部屋に連れて行った。そこには西向きの隅に一つの場所があった。それは、祭司たちが最も聖なる捧げ物を食べるために煮炊きするところであり、祭司の他に誰も見たことのない部屋であった。また外庭の四隅には、それぞれ一つづつ区切られ、石壁で囲まれた小さな庭があった。そこは、神殿に使えるレビ人たちが、民の捧げ物を煮炊きする場所であり、ここも一般の人は入ることができない場所であった。神は、このような場所を含めて、用意しておられたすべてをエゼキエルにお示しになった。神はエゼキエルに何も隠されなかった。それは、この世界において神が聖とされるための巨大なシステムの全体系であった。

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