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2007/04/22

復活の主イエス

『さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。』(マタイによる福音書 第28章16節より)

 主イエスの生前に寝食を共にした弟子たちの中に、復活の主イエスにお会いしてもなお疑う者がいたとは。彼らはなぜ主イエスのお姿を目の前にして、その方がイエスであることを疑ったのか。顔姿は同じでも、別人だと思ったのか。それとも、そのときの主イエスのお姿は、生前のそれといくらか、あるいは著しく異なっていたからなのか。

 『その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿でご自身を現された。』(マルコによる福音書 第16章12節より)

 主イエスは、生前と違う服装に身を包んでおられたのか。それともまったく別人の顔立ちだったのか。この二人の弟子は、いつのまにか近づいて来て共に歩んでいた主イエスに、まるで見知らぬ旅の人にするかのように語りかけている。
 人がある人をその人だと認識するのは、どういうことを通じてなのだろうか。こんなことを考えてみた。つまり、何年かの間親しい関係を築いてきた若い男女がいたとしよう。二人は近々結婚の約束をしたとする。ところが、男性の方が車を運転中に交通事故に会い、そのときたまたまシートベルトをしていなかったためにフロントガラスに頭から突っ込んでしまい、顔に大怪我をしてしまった。大手術の上なんとか正常な顔には戻ったが、その顔はもとの顔とは似ても似つかないものになってしまったとしよう。そのような不幸なことが実際にあるかどうかは別として、彼のフィアンセの彼女は、それでも彼と結婚しようと思うだろうか。もし彼女の愛がある程度深ければ、きっとそれでも彼と結婚するのではないかと私は思う。もしそうなら、そのとき彼女は、何をもって彼を認識しているのだろうか。彼の顔以外の体だろうか。それでは、もっともっと意地悪な想定をすることができる。つまり、彼が交通事故の結果、片足を失ってしまったとか・・・・・・。彼をいじめるのは、もうこれくらいにしておきたいが、要するに、人は何をもってある人がその人であることを認識し、なおもその人を愛することができるのかということである。今想定したのは、結婚を間近に控えた男女であったが、長年連れ添った夫婦の場合には、なおさら切実な問題ではないだろうか。
 私は、こう考える。つまり、人がある人をその人だと認識するのは、顔でも姿でもなく、なにかもっと本質的なものなのだと。たとえその人の顔や姿が損なわれても、声が変わっても、決して変わらない何かがあると思う。たとえ五感で認識できるありたけのものが変わってしまっても、私なら、もしその人が私の妻だということが証明されるなら、あるいは私にそう信じさせるものがあるなら、きっとその人を自分の妻として持ち続けるだろう。

 『一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かった。』 ルカによる福音書 第24章30節

 彼らが復活の主イエスを認識したのは、きっと顔や姿ではなく、もっと本質的な何かだったのだと私は信じる。そして、その本質が見えない人は、「疑った」のだった。
 それでは、現代を生きる私たちは、復活して今生きておられる主イエスを、何によって認識するのだろうか。しかり、それはかつての弟子たちとまったく同じではないか。私たちは、主イエスのお姿を見ることはできないかもしれない。しかし、私たちにいま働きかけ、導いておられる主イエスを私たちは感じることができる。それは、まぎれもなく復活の主イエスである。なぜなら。

 『聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。』 ルカによる福音書 第24章32節

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