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2007/04/21

ヨハネの福音書(5:1~6:71:審判者)

 イエスは神の言葉である。そして彼は同時に審判者でもある。その意味は、福音書記者ヨハネによれば、イエスが言葉を語るところでは、同時に神の審判が行われていることになるからだとブルトマンは言う。しかし当時の権威者は、そのことを理解しなかった。彼らは、イエスの「私は神の子である」という言葉を「私も神である」という意味に理解した。そして「神はただお一人なのに、イエスは自分を神と等しいものとした」と糾弾したのである。しかしイエスは、神の子は独立した存在として神なのではなく、父なる神と一つだと言われたのであった。
 そのように父なる神と一つである主イエスは、ヨハネが書いているように、自分からは何事もなさらない。そればかりでなく、ブルトマンによれば、彼は彼自身としては、何者でもなく、ただ彼を通して神が啓示されているところに存在意義を持っているという。これは、神への冒涜だろうか。私はそうは思わない。むしろ、返ってそのことが、神が人となったということの真剣な受け止め方であり得るし、もしその通りなら、私がこの世界を主イエスが歩まれたように生きるとき、聖書が言っているように、私の腹から命の水が泉のように溢れ出て、人々へと流れて行くということが本当に起こると信じられるのである。すなわち、主イエスは神であったが、この地上において真に人となられたゆえに、主イエスに起こったことは、同様に人であるこの私にも起こるということである。それゆえ、主イエスを見た者は神を見たのであり、主イエスの弟子は、師イエスの業を行うのである。
 しかし反対に、もし主イエスに従わない者がいるなら、その人の人生は、神に背くものとなる。主イエスが歩まれたように歩まない者の人生は、主イエスの歩みや姿勢と異なっている正にその部分において、その異なっている通りに、神の御心にそぐわず、神に反したもの、すなわち罪の人生となり、その人はまさにそのことによって裁きを受けることになる。
 かくして主イエスにおいて、神の言葉は歴史となったのであり、主イエスが生まれられてから、そのように世界の歴史の意味がまったく変わってしまったのである。

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