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2007/04/19

ヨハネの福音書(4:45~6:59いのちのパン)

 イエスは、人々の前で数々の奇跡を行った。カナの婚礼では、水を上等のぶどう酒に変え、サマリアの女の素性を言い当て、役人の息子を死の病から癒し、ベトサダの池の際に38年間も寝ていた病人を立ち上がらせた。また、5千人に食べ物を与え、湖の上を歩いて渡られた。それらは、何のためだったのかとブルトマンは問う。
 奇跡は人々に様々な反応をもたらした。ある者は奇跡を見て信仰に入り、またある者は躓いた。ある者は、さらなる奇跡を見たいと主イエスの跡を追いかけ、またある者は、彼を王に祭り上げようとさえした。しかし主イエスご自身は、いつも公然としておられ、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。人々が見ないで信じるべきことを求めておられたのだろう。そして、そのような信仰こそ、奇跡を起こす力であることを知っておられたのだ。ブルトマンは、福音記者ヨハネがこれら古い終末論に対抗して新しい終末論、すなわちメシアの招きに全人格的に決断し、神の国に全面的に参画するべきことを説いていると見ているようだ。
 これら2つの終末論は、互いに逆説的な関係になっている。つまり一方においては、奇跡の結果、魚やパン、健康、興味のような外面的、この世的、刹那的なものが受け取られるのに対して、もう一方では、そのようなものではない、何か見えないが大切なものが受け取られるのである。それはなんだろうか。
 パンを求めて来る人々に対して、主イエスは、「私が生命のパンである」と言われる。「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と。受け取られるのは、主イエスご自身なのである。そして、これは逆説であり信仰の奥義である。ブルトマンは、更に徹底して逆説的なことを言っているのだが、それによると「だが彼は、彼自身では何者でもなくて、父に仕えながら人間のためにそこにいることによって、生命のパンなのである」と。つまり、イエスに奇跡を期待することは、イエスにメシアとしての自己証明を人間側の固定概念に従って求めることであり、主イエスは、そのようなことに答える義務はなく、それらのことから自由であり、ただ神に仕えるということの中にこそ主イエスのメシアとしての証明があるということであろう。そして、これをさらに逆説的に進めることができる。すなわち、「彼があなたの前にそのように存在することによっても、まだ彼はあなたにとっていまだ何者でもない。あなたが彼を信じ、その結果あなたが、彼のように生きることを決意するまでは」と。

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