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2007/04/17

聖域

エゼキエル書 第45章

 神はエゼキエルに、イスラエルの12部族に斯業としての土地を割り当てる方法を示された。それは、イスラエルの領地の北端から、ダン部族から始めて順に帯状に領地を割り当てるという大胆なものであった。そのように割り当てて来て7部族目のユダの領地に接するようにしてやはり帯状に聖域が始まる。最初の帯状の地帯は祭司が受け継ぐ地帯であり、その中に神殿のある聖所が含まれている。その次の帯状の地帯はレビ族のものであり、これら二つが聖域を構成する。それに接するようにイスラエル全体の共有地として、その中に都を包含するやはり帯状の地帯がある。そしてそれに接するように、残りの5部族のための帯状の地帯が始まる。
 このように土地を割り当てることは、大きな意味を持つに違いない。まずそれは、社会経済活動を強力に抑制する。土地の取引は許されず、マーケティングは意味をなさないものとなる。そのようにして、すべての営みは、神のためとなる。このシステムは、かつて出エジプト時代に荒野で営まれた社会形態である。あのときは、砂漠の中で民族ごとに、それぞれの旗印のもとに宿営した。それは、約束の地への途上としての形態であった。しかし今は違う。それは、最終的な到達地点、すなわち目的地における姿なのだ。この「途上における姿」と「目的地における姿」とが良く似ているところに大きな示唆があるように思われる。つまり、荒野におけるあの流浪の民のような生活、彼らはそこで泣き言を言い、神に向かってつぶやき、エジプトの生活を恋い慕ったのだったが。しかしそのときでも、それは、神の与えられた理想の、最上の、この上もない、まばゆいばかりの栄光の姿だったということである。ああ、神よ、あなたは、イスラエル民族をどれほど愛しておられたことか。そして、今も愛しておられることか。
 私は、確信する。きっと私たちも、この世の生活を終えて神の御元へ行くとき、すなわち私たちの生涯の目的地に着くとき、そこできっと知るだろう。神が私たちを、この地上という天国への途上において、どれほど愛していてくださり、私たちは神の御手に守られ導かれて、どれほどにまばゆいばかりの祝福の内にあったのかということを。

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