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2007/04/12

ヨハネの福音書(4:1~30:イエスとサマリアの女)

 主イエスは、ガリラヤへ向かう旅の途中でサマリアを通られた。そしてとある井戸辺で、一人のサマリアの女と出会い、彼女に語り掛けられた。
 今日私たちが人々に福音を宣べ伝えるとき、主イエスはまさにそのようにして人々と個人的に出会い、語り掛けられるのだとブルトマンは言う。しかし実際にその人と向き合っているのは私たちである。そこで主イエスは、今日でも人々にこのように語りかけておられるのである。すなわち、「もしあなたが神の賜物を知っており、またあなたに語りかけているのが誰であるか知っていたなら、あなたの方からこの人に頼み、この人はあなたに生ける水を与えることだろう」と。そしてそれは、ヨハネ独自の「二元論」であり、地的なものはすべて見せかけの真正でないものであり、自然的な生命は非本来的な生命であるにすぎないという。だから私たちは、この世の見せ掛けの名誉や幸福を追求するのではなく、返ってそれらを捨てて、福音を延べ伝えることを最優先させなければならない。それは、主イエスのように、人々のいない井戸辺で立ち止まり、腰を下ろして、そこに出会う人に「水を飲ませてください」と願うことなのだろう。そのとき初めて、主イエスは人々に語り始められるのだ。「あなたと話している私がそれである」と。
 現代日本の教会は、伝道に非常な困難を覚えているようだ。集会のビラを何千枚も撒いても、わずかな人しかやってこない。そして年に一人か二人、いやだれも救われないこともある。それはまことに「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」というように、長い年月の忍耐を必要とするように思われる。しかしブルトマンは、そうではなく、「だが本当は、35~37節は、まさにこのことを教えようとしている。- それは、蒔く者と刈る者が共に喜ぶためであり、イエスの働きと弟子たちの働き、つまり種蒔きと収穫は同時的に行われるのである」と言う。
 私たちを通して、主イエスが直接働かれるときには、私たちが蒔いた福音を主イエスが刈り取ってくださるのだ。主イエスは今日、そのように人々の心に迫り、諸歯の剣のようにその人の心に切り込み、その人が改心する奇跡を見せてくださるのだ。ちょうどあのサマリアの女のときのように。

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