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2007/04/11

ヨハネの福音書(3:22~30:洗礼者の証言)

 その後主イエスは、ユダヤ地方に行き、そこで洗礼者ヨハネに対抗するかのように自ら洗礼を授けることを始める。ブルトマンはその情景を、ヨハネ教団とイエス教団の対立という構図で描写している。聖書に即して考えれば、それはあくまで教団同士の対立であり、ヨハネとイエスの対立ではあり得ない。しかしその提唱された構図によると、洗礼者ヨハネはこのヨハネ教団の指導者であり、聖書が描写しているように、突如荒野に現れた神がかった人とは少し違うようだ。またブルトマンによれば、そもそもこのヨハネ福音書を書いたのは、使途ヨハネではなく、このヨハネ教団の元信者ということになる。もしそういうことなら、このヨハネ福音書が書かれた目的にも多少異なった意味が含まれる可能性が出てくる。すなわち、ヨハネ教団とそれに影響されていた人をイエス教団に招き入れるための勧誘という要素である。
信仰者の中には、聖書の中にこのような構図が含まれていることを認めたくない人も少なくないだろう。そればかりか、そのように考えることは、聖書の信憑性というか無謬性を疑ってかかることだと考える人もいるかもしれない。しかし、いま私がなぜこのような議論を展開しているかというと、上記のような構図を想定すること、言葉を変えれば、聖書の裏側の事情をあれこれ詮索すること、またブルトマンの立場で言えば、聖書を非神話化することは、今日私たちが信仰により、この世界をどう生きるかということを考える上で、もしかすると重要なことなのかも知れないということを提起してみたいからである。
 これは福音主義信徒にとっては、少なくない冒険であり、もちろんブルトマンのように、福音書の作者についてまで詮索するきはないが、いま取り上げている洗礼者ヨハネとイエスの洗礼に関する記事をそのまま受け取るだけだとすると、それは時代背景においても、状況においても、私たちが現在置かれている状況とあまりにも違い過ぎることから、この聖書の箇所を読んでも、それは私たちに切実な影響を与えることが少ないのではないか。むしろそれは、ヨハネ福音書において福音が本格的に展開されるための単なる序でしかなくなってしまう可能性があるのではないかということである。
 しかし実際は、使徒行伝においても、マルコを伝道旅行に連れて行くかどうかで、パウロとバルナバが激しく争うような場面があったり、また宗教会議における論争の場面があったりするが、そのような場面が聖書の中で、ともすると浮き上がってしまうようなこともあるのではないか。それは実は、聖書の記述、つまりその受け取り方と私たちの現代における教会生活の間のギャップがかなり大きいことによるのではないかということである。もしかすると、そうではないのではないか。福音書の時代にも信仰や伝道に関する論争、迷い、失敗等々があったし、それは使徒行伝においても、現代においても、また、華々しくは創世記においても、状況はまったく変わっていないと考える方が、実は好ましい姿勢なのではないかということがブルトマンが提唱したいことなのだと思う。

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ヨハネの福音書(2:23~3:21:イエスとニコデモ)

 ある夜、ニコデモという人が主イエスのもとに訪ねてきた。彼は、ファリサイ人にして議員であり、律法学者でもあった。そのニコデモが主イエスをラビと仰いで言った。「先生、私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」すると主イエスは答えられた、「だれでも新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。この一言の中に、人類の歴史を貫く大いなる矛盾が凝縮されている。それは、この世界のだれ一人自分の生まれてきた意味も、今生きている理由も、これから行くべき場所をも知らないということである。そして、なんと、なんと、それを聞いても答えてくれる人は、この世界にいないのだ。ああ、なんという矛盾だろう。人は、この矛盾を心の奥底に抱えて歩き回り、日常のことに奔走している。しかし、静かな物音のしない夜、ふと目覚めたときに、彼の心を脅かすのは、ほかならないこの矛盾なのである。
 そのようにして、ニコデモは夜、主イエスのもとに忍んでやってきた。もしかしたらこのお方なら、答えてくれるかもしれないと思ったのだろう。そして、主イエスの口から出た言葉に彼は驚嘆して言った。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか!」ああ、何ということだろう。人間は、真理を求め、さまよったあげく、その真理を目前にしても、ただ、ただ、その前に途方にくれるしかない存在だとは。ブルトマンは、この超越的な真理を「再生の秘儀」と呼んでいる。それは、提示されはするが、人には受け取ることのできない真理である。人はその前にただ呆然とし、ときにはその真理に対して、またそのような法則を作った神に対して腹を立てることにもなる。これは、躓きの一つの契機である。
 しかしこの物語はこれで終わりではない。ニコデモの前に立っていたのは、この世界の教師ではなく、天から下って来た神の御子である主イエスであったのだから。主イエスは何を語るのだろうか。彼は、自分がその者、すなわち啓示者であることを語る。しかしそれ以上のことは語らない。啓示の内容は、すなわち啓示者なのである。つまり、ニコデモが受けるべきことは、主イエスの教えではなく、主イエスご自身なのである。主イエスこそは、天に上がられた方であり、そこから降りてこられた方であり、天上のことを知っているただ一人の人間なのだ。しかし、主イエスは天上のことを語られない、それは主イエスご自身だからであり、それこそがブルトマンが言う「人の子の秘儀」なのである。
 それでは、人はこれらの秘儀をどのようにして受け取るのであろうか。それは、「信仰」という不可解な方法による。それらの秘儀を受け取る方法、つまりメシアなるキリストを信じることを得るための方法は、奇跡を見ることでも悟りでもなく、ただ「信じること」によるのである。そしてそれは、真理の啓示者としてのキリストの証言に全身全霊を持って応答することによるのである。

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