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2007/04/09

ヨハネの福音書(2:1~22:序幕)

 第1章における伝道者ヨハネの証言に続き、いよいよ第2章にはメシアであるイエスが本格的に登場する。この章を福音書記者ヨハネは、ブルトマンの言葉を借りて言えば、二つの「風変わりな出来事」で始めている。彼はその意図について、ここで様々な考察をしている。しかし聖書を神の言葉として、そのまま受け取ろうという姿勢を貫く人(私も含むが)は、この「ヨハネの意図」というような表現には、多少拒絶感を抱くかもしれない。そこにはなにか、福音書記者が意図的に事実を編集したというようなニュアンスが含まれているように感じられないこともないから。そして、聖書は聖霊の導きの中で書かれたという信念から、なにかヨハネが夢うつつの中で、なから手が自然に動くかようにこれを書いたと信じている人がいるかもしれない。また、そこまではいかなくても、少なくともヨハネは「そうとは意図せずに」この福音書を書いたと信じている人もいるだろう。また、もう少し柔軟な立場としては、福音書記者ヨハネが目論んだ意図が実は神の意図であり、聖霊の御心であったという立場の人もいるだろう。そしてそのような考えも、神の全知全能に矛盾しないと思われる。そして、この最後の立場の人は、ブルトマンの考えというか信仰的な立場に近いのではないか思う。つまり、私がいまここで考察したいことは、聖書を信じるとはどういうことかということである。
 ブルトマンは、2章に記されている二つの物語について、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡は、異教の伝説に由来するものであり、また、その次に記されている「宮清め」の出来事は、伝承物語から採用したものだと言う。これを聞いて、もうブルトマンなんか読む価値はないと断定することは簡単かもしれない。しかし、このブログの方針としては、一度開始した研究テーマは、最後までやりとげるということをもっとうとしているから、できれば最後まで見て行きたいと思っている。
 まず奇跡について考えてみたい。カナの婚礼で主イエスが水をぶどう酒に変えたことは、実際に起こったことであろうか。むろん私はそれが事実だと信じている。しかし、ここでブルトマンが私に投げかけてきている質問は、そのことが現代を生きる私にいかなる影響を与えるだろうかということのように思えるのだ。私は、この奇跡が事実だということから、主イエスが神の子であり、メシアであることを受け取るのであろうか。否、主イエスが奇跡を行ったからではないだろう。むしろ事実は逆であり、主イエスを救い主として信じているゆえに、私は主イエスがこの奇跡をも行ったことを信じるのである。つまりこの場合、奇跡の意味は、それが記述された「意図」に重点を置いて受け取る必要があるということであろう。実際に、ヨハネがイエスのすべての言動を福音書の中に記述できたのではないし、事実ヨハネの福音書の最後には、「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書き記すなら、世界も書かれた書物を入れることができまいと私は思う」と彼自身が記しているのだから。
 次に「宮清め」の記事であるが、ブルトマンは、ヨハネがこの事件をここに記述したのは、この福音書全体を貫いて鳴り響いているモチーフを提示するためだと言う。しかしそのような意図は、ヨハネから出たものかそれとも聖霊がヨハネの心を動かして、そのように書かせたのか。それは、上述したように、受け取る人により様々だろう。実際、そうでしかあり得ないのではないだろうか。そして、それは今日においても変わらないのだろう。つまり今日、生きて働いておられる主イエスが私たちの人生にどのような奇跡を行ってくださるのか。言葉を変えて言うと、私たちの人生の中に起こってくる事件のどれを主イエスが成しておられる奇跡と受け取るのか。また、日常生活の中に生起する様々な出来事のどれが私を清めるための啓示的な出来事なのか。それらは、すべて私がどのように主イエスを信じているかに掛かっている。そして、このような主イエスとの不断の関係においては、正統派もカリスマ派も、ブルトマンも同じではないかと思うのだが。

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