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2007/04/07

ヨハネの福音書(1:19~51:洗礼者の証言)

 天の父は、ご自身の独り子の前に道備えをするため、まず洗礼者ヨハネを遣わされた。彼ヨハネがロゴスなるお方を指し示すためである。しかし何故に、全能者のために肉なる人が道備えをする必要があったのだろうか。それは、この福音書の序曲としての1:1~18に鳴り響いていたように、世の人はメシアが来られても彼を受け入れないばかりか、自らメシアを認識することさえできなかったからである。そこで、ヨハネが立てられた。彼は洗礼者であり、洗礼は当時、メシアの行うことと信じられていた。しかしヨハネは人々の前で、自分はキリストでもエリヤでも預言者でもなく、彼の後に来る人こそがそれだと証言したのだった。それゆえ人々は、ヨハネが授けていた洗礼の意味が分からず、「それではあなたは、なぜ洗礼を授けているのですか」と聞いた。しかし主イエスの証言によれば、実はヨハネはメシアの前に来ると言われていたエリヤだったのである。ただし、人々がヨハネを受け入れればである。そのように洗礼者ヨハネは、人々が受け入れないであろうメシアを指し示すために立てられた。そして人々は、ヨハネをも真実には受け入れなかったのだった。
 洗礼者ヨハネは、イエスが歩いておられるのを見て「見よ、世の罪を取り除く紙の子羊!」と叫んだ。その意味は、ヨハネの弟子たちにも良く分からなかった。そこで弟子たちは、イエスについて行った。イエスは彼らに「あなた方は何を求めているのか」と問うた。そのように世の人々は、自分たちが求めているものさえも分からないのであり、それが分かるためには、主イエスが「来なさい、そうすれば見るだろう」と言われたようにするより他に方法はないのである。ヨハネの証言により、主イエスについて行った弟子の一人アンデレは、自分の兄弟シモン・ペテロに「私たちはメシアに出会った」と言って、彼を主イエスのもとに連れてきた。主イエスは、ペテロの名前をすでのご存知であり、彼にケパという新しい名前を付けられた。翌日主イエスは、さらにピリポに出会われ、彼を招かれた。ピリポは、自分の友ナタナエルを連れてきた。主イエスは、ナタナエルがどのような人で彼がどのような課題を抱えているのかをも知っておられたので、ナタナエルは、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言った。そのように私たちは、自分が何を求めているのかも、また自分がどのようなものなのかもわからないが、メシアとして私たちに出会われるお方は、それらのことを知っておられるのである。
 したがって、ここでブルトマンが言っていることは、次のことである。すなわち、私たちの改心、信仰生活、献身、奉仕、伝道、天への凱旋等々、私たちのすべては、私たちの心の思いや知識、インスピレーション、戦略等々によるのではなく、主イエスがあなたを知っておられるという一点にかかっているということである。そして、私たちと主イエスの接点であるこの一点を通り抜けることがすなわち、「来なさい、そうすれば見るだろう」との主イエスの言葉への私たち一人一人の応答なのである。

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