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2007/04/05

ヨハネの福音書(1:5~18:歴史における啓示者としてのロゴス)

「14:言葉は肉となって私たちの間に宿った。私たちは彼の栄光を見た、父からの独り子としての栄光を。」

 この告白を語っている「私たち」とは、生前の主イエスにお目にかかった弟子たちだけでなく、先にブルトマンが述べているように「教会全体」なのである。ところが教会は、歴史を通じて存在し、形成され続けるものであるから、ここではさらに広大な視野で「歴史」に目が向けられていることになる。
 もし私たちが聖書を単なる主イエスの伝記のように扱い、それをありがたく床の間に飾り、部屋を出るなり、そこに書いてあったことを忘れてしまうような生活をするなら、歴史の中に神からの啓示の光が照ることはなく、人々が救われることもまたないであろう。ところがクリスチャンは、往々にして世事に疎く、事務が苦手で義務を怠り、人々から半分変人のように見られていることが多いのではないだろうか。
 ブルトマンは、世の人々は歴史の中で、この世界のどこに神からの啓示を見ることができるのかと問う。そしてそれは、「言葉が肉となった」まさにその「肉」の中においてであると言うのである。「ロゴスは世にあった」とあるが、彼は何をしに来られたのか。光として、世の人に啓示を与えるために来られたのであり、そして今も変わらずに世の光なのである。この光はかつて万物の創造のときに照ったが世が受け取れなかった光であり、その失われた啓示を再び与えるために来られたのである。
 この啓示は人間に、神についての知識を与え、それによって人間に自己自身の真の理解を与えるものである。しかもこの啓示は、他のどのような方法によっても与えられることはない。それは、彼ロゴスが神の独り子であるということがこの啓示の中心であるからである。しかし、彼ロゴスがこの地上で啓示を語ったといことではない。もしそうなら、彼がいない後は、他の人が彼に代わって啓示の仲介者となれるかもしれない。しかし、そうではなく、啓示とは彼が語った言葉ではなく、彼自身が啓示そのものなのである。だから伝道とは、彼の言葉を宣べ伝えることではなく、彼ロゴス自身を宣べ伝えることなのである。
 さらに彼自身を宣べ伝えるということは、それによりその結果として、世が神に関するなにか一般的な知識を獲得することが意図されているのではなく、実に彼ロゴスを知ることがすなわち神を知ることであり、それ以外に神を知る方法も形態もあり得ないということなのである。
 私たちがそのようにしてキリストを宣べ伝えるとき、それは世に対して一つの躓きとなる。なぜなら世が求めている神に関する知識は、そのようなものではないからだ。しかし、私たちは十字架に架けられたキリストを宣べ伝える。そこに躓きの可能性を排除することはできない。しかしまた、そこに躓きを克服する上からの啓示の光も燦然と照り輝くのである。しかしそれは、私たちが神の啓示に対して、世の人々に弁解することによってではない。もしそのようなことをするなら、そのとき宣べ伝えられているのは、キリストではないことになろう。しかし、私たちが世を恐れず、その結果としての躓きや迫害を恐れずにキリストを宣べ伝えるなら、そこに神の啓示の光が輝くのであり、これが真の歴史なのである。

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