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2007/04/03

ヨハネの福音書(1:3~4:世に対するロゴスの関係)

3:「すべてのものはロゴスを媒介にして成った、彼ぬきで成ったものは何一つなかった。」
4:成ったもの--彼の中にそれのための生命があった、この生命は人々の光であった。」
 この世界のすべてのものは、例外なく神の言葉により創造されたのである。クリスチャンは、よくそのように言うことがある。しかし、本当にそれを信じているのだろうか。もし信じている人がいるとすれば、その人は神を知っている人に違いない。神を知っている人とはいかなる人か。「神」と言葉に出したそのとき、いや、神のことについて思い至ったその瞬間に、その場に平伏したくなる人。そのとき、涙が出るほどいとうしくなり、「ああ、あなたを愛します。ただ、あなただけを愛します。」と心のうちに告白する人、道を歩いているときにも、またバスや電車に乗っているときにも、神の臨在感じ、大いなる畏れのうちに、献身を新たにする人。どのような苦境が襲ったときにも、それから目を転じて、自分の中に留まり、すべてを忘れて神を第一に讃美する人。そのような人が神を知っている人だ。なぜなら、神はそのようにされるにふさわしいお方だからだ。
 ブルトマンがこの章で言っているのは、まさにそのことに他ならない。「すべてのものは神の言葉により成った」という意味は、神が命令されて、すべてに秩序が与えられたというような異教的なことではなく、それは無、完全な無からの創造なのである。しかし、ひとたび創造されてものにとっては、今度はロゴス(神の言葉)は、光となったのである。光とは、命のことであり、創造されたものの中には、命はなかったのである。そして、それは、天地創造から現在まで、そして永遠に至るまで変わらないことなのである。
 そこで、アダムの罪は、次のことである。すなわち彼は、命の実を食べることにより、賢くなろうとしたのである。しかし、賢くなるとは、光を必要としなくなることであり、それは、神の言葉による創造に反したことなのである。なぜなら、キリストは、造られたものすべてにとって、永遠に光であられるからである。そこで、ブルトマンが言うように、「人間にとって決定的な自己理解とは、自分の被造性を知ることであったはずである。そのような知識によってだけ、彼は光の中に存在しえたはずであるし、また同時に造られた人間が生命をもちうる限りでという意味で、生命を保ちえたはずである。」
 そこで、キリストによる救済とは、この原始の啓示への回帰なのである。なぜなら、神はお造りになったすべてのものを見られて、「はなはだ良い」と言われたからである。そして、ブルトマンによれば、それは人がキリストに最深の意味で従う決心をすることにより再び生起するのである。

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