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2007/03/30

ヨハネ福音書(1:1~18:序文)

 ブルトマンは、「始めに言葉があった。」に始まるヨハネ福音書のこの序文を聖書中でも類希な、特別なものと見る。彼はそれを「謎」と言い、「序曲」そして「問い」とも言う。
 それは、何の予備知識的な前提もなく始まり、この福音書を説明しているのでもなく、紹介しているのでもない。それは謎に包まれ、それを読む者に深遠な問いを発する。しかも私たち信仰者になじみのある「生命」、「光」、「栄光」、「真理」という言葉を持ってその問いを発するのである。それは、私たちがそれらの概念を今初めて本当に理解するすべを学ぶときが来たことを高らかに告げ知らせるおとずれである。
 この壮大な序曲を奏しているのは、いったい誰なのか。ブルトマンによれば、それは、新しい真理の提示と「私たちは」という語りかけの並行により、啓示と信仰告白との間を揺れ動いている。それを語っているのは、信じる者の群れであり、人と成った神の言葉の身体としての教会なのである。そのように、私たち信じる者の群れは、その人生と信仰告白により、この世界に神の救いと恵みを告げ知らせると共に、私たち自身がこの世界において、世の光であり、神の言葉そのものなのである。
 この序曲は、「光は闇の中に輝いている」と歌う。私たちもこの闇の世において、キリストの恵みにより、光と輝く可能性を与えられている。しかし、そのためには、まず私たちは出て行ってこの世の闇の中に身を置く必要がある。ちょうどキリストがその栄光の御座から降り来り、私たちの住まいするこの闇の世に住まわれたように。「私たちはこの方の栄光を見た。それは、神の一人子としての栄光であり、恵みとまこととに満ちていた。」これは、単なる真理の啓示ではなく、私たちの運命と使命について言っているのである。私たちがこの言葉の通りに出て行くそのとき、この世界はまさにこの序曲を奏で始める。そしてついに言うだろう。「私たちは、この方の栄光を見た!」と。

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スパイダーマンのバッジ

Spider
これは、金のハートに赤いくもの巣の模様が掘り込んである洒落たバッジである。ある福祉関連のセミナーだかシンポジウムだかに出展していた、こどものための活動をしているNPOのスタッフから買ったものだ。一目見て気に入り、ぜひ譲って欲しいと言ったら、おつりがないというので、1000円出して3つ譲ってもらった。このバッジには、スパイダーマンのように弱くても強い子になって欲しいという願いが込められているそうだ。そんなわけで、励ましてあげたいような人にあげてしまったので、今はもうこの一つしか残っていない。スパイダーマンなんてどこにも描かれていないのに、なぜかそれが分かるちょっと不思議なバッジでもある。

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非神話化の今日的意義について

 ブルトマンが1941年に提唱した「聖書の非神話化」は、伝統的なキリスト教諸派に大きな衝撃を与えると共に、囂々たる非難を巻き起こした。それはこの方法論が、従来の聖書の批判的研究、例えば様式史研究に強力に寄与すると共に、そのころ低迷を始めていた自由主義神学にも新しい命を吹き込むもののように見えたからだろう。そればかりか、そもそも聖書の記述を神話と決めてかかり、その中から信憑性の疑わしい部分を解釈し直そうとは、まったくもって神への反逆以外の何ものでもないというわけである。
 しかし、この方法論におけるブルトマンのオリジナルな部分は、実はそのような面にはない。それはむしろ、聖書への実存論的なアプローチにあるのだ。つまりブルトマンは、聖書を神話化しようとしたのではなく、それを文字どおり非神話化しようとしたのであった。それでは、彼の言う「非神話化」の意味するところはいったい何か。それは、聖書の中の神話的でないところ、つまり一見日常的に見えるようなところにこそ神がもっとも良くご自身を啓示しておられるということである。だから我々は、聖書から神の啓示を読みとる為に、それを必要以上に神格化した見方をする必要はない。むしろありのままの人間イエスの生涯に神ご自身が啓示されているということだ。同様に私たちは、自分の人生や教会の歴史に対しても、必要以上に神聖化した見方をする必要はない。むしろありのままの歩みの中にこそ神がご自身を啓示しておられるのである。
 私たちの毎日がたとえ、悩みの連続であろうとも、また、家庭における父親としての地位や夫婦関係が、パウロの手紙に薦められているような理想的なクリスチャンホームのそれとは大して似ていないとしても、神はそのようなあなたの地味な精一杯の人生の中に明確にご自身を啓示し、あなたによってこの世界に大いなるご栄光を現そうと計画しておられるのである。
 もし私たちが、奇跡を期待したり、大いなる御業の中にのみ神の啓示を求めるとしたら、それはともすると私たちの地道な信仰生活を否定し、それを惨めなイメージに染めてしまう危険性がある。もしそれが妥当なことだとしたら、十字架の購いや殉教は無用のものとなってしまうだろう。しかし、聖書が啓示している私たちの救いと祝福は、そのようなものではない。ブルトマンが主張するのは、私たちの祝福は、主イエス・キリストを信じる信仰にのみ依存するものであり、奇跡や癒しや物質的な祝福の多少にはよらないということである。
 しかし、このように言う人があるだろう。すなわち、奇跡、癒し、導き、物質的な祝福等は、それ自体としては信仰の目的でもまたバロメータでもないが、それは信仰の結果として起こり得るものであると。その通りだと思う。奇跡、癒し、導き、物質的な祝福は、現にキリスト教の歴史の中に、ちょうど聖書に書かれているように起こって来たし、今も起こっており、これからも起こるのを待っているのである。そのような意味では、ブルトマンの神学は、聖書の啓示のある領域に限定されたものと言えるだろう。しかし私たちは、彼のアプローチから、私たちが現代に生き、そこに主体的に関わり、神の救いと恵みを証しするために必要な多くのことを学ぶことができると思う。それは、この世界で起こる諸々の出来事から決して目を背けず、その中にこそ神の啓示を見ることであり、そのようにして、この世界において、神と人々の間に預言者として立ち行動することである。そのようにして、日々自分の生活を通して、たゆまずに神の栄光を現し続けることである。そしてそれが、ブルトマンによれば、キリストが「私を見た者は、神を見たのだ。」と言われたことの真の意味なのであり、事実キリストは今日、そのようにしてあなたと出会い、共に生きておられるのである。

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名刺判のCD-R

Cdr
ふつうのCD-ROMは、650MB以上データを記録することができる。でもこのCD-ROMは、45MBしか入らない。この制限が、なんとも好きだ。 そもそも、これは私の場合だが、友達にデータを渡したりするときには、10MB程度あれば足りることが多い。そんなとき、この名刺判CD-ROMを使えたら、なんとかっこいいことだろう。そう思って、ずっと探して探して、なかなか見つからなかったけど、ある日、なんと100円ショップで見つけてしまった。うれしかったなー。思わず5枚買ってしまった。そして、2,3日してから、また5枚。 でも、まだ1枚も使っていない。

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風船の地球儀

Earthball_1
この地球儀は、すきとおっていて、とても気に入っている。 自分が訪れたところに緑の小さな丸いシールを貼ってみたら、ますます愛着が湧いてきた。 でも、なかに空気が入っているだけに、冬になるとだんだん弾力が低下してしぼみ始める。そして寒い朝、見てみたら、軸からはずれて落ちてしまっていた。 さぞ寒かったんだろうな。 そして、こんなことではだめだから、少し余計に空気を入れてやる。 そして、また寒くなる。 また空気を入れる。そんなことを何度か繰り返して春を迎えるというわけだ。 今は3月末。 だいぶ暖かくなってきたので、空気がパンパンになっている。 今度は、少し抜いてやらないとだめかなー。

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聖なる場所

エゼキエル書 第42章

 拝殿の北と南には、それぞれ50m四方の構造物があり、それぞれ二つの建物から構成されている。それらは、一つの部屋と3階建ての階段状の建物である。部屋の方は、祭司がそこで聖なる物を食べたり、祭儀のための着替えをするための聖なる場所である。階段状の建物については、その用途に関する記述がないが、何と魅力的な姿をしていることだろう。
 拝殿に対して北と南にあるこの聖なる場所は、神殿全体ではもっとも聖なる場所ということではない。それは、聖なる所への入り口という程の意味である。この聖なる場所は、拝殿の東側にはない。東の門は、神ご自身が入って来られるところだからであり、神は聖なる場所を必要とされない。むしろ神の臨在される場所、いや神ご自身が聖なる場所以上のお方だからである。しかし、拝殿の北と南には、祭司のために聖なる場所が設けられた。同様にこの世界にも神は、聖なる場所を設けておられる。私たちは、この「聖なる場所」の意味を良く考える必要がある。それは、神聖への入り口というほどの意味であり、そこで私たちは神聖に至る備えをするのである。それでは、この世界における聖なる場所とはどこであろうか。それは、神の神殿としての私たちの体であり、その奥に聖なるお方が住んでおられるのである。だから、私たちは自分の体を聖なるものとして神にささげることにより、そこを聖なる場所として保つ必要がある。
 最後に神は、この神殿全体を幅約3mの外壁で取り囲まれた。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであると記されている。この世界において、聖なるものは俗なるものから意識して区別される必要がある。そうでないと、それら2つのものは、混ざり合ってしまうのであり、混ざり合ったものは、すなわち俗なるものだからある。この世界にあるものは、パウロが言っているように、基本的にはすべて聖なるものだ。それは、神が造られたという意味であり、聖い人にとっては、すべて聖なるものなのである。しかし、それが俗なるものになる可能性がある。それは、人間の意識の中でそのようになるのだ。そこで私たちは、自分の心の中に、聖なるものを俗なるものから区別するための堅固な外壁を築く必要がある。その外壁の高さは、せいぜい3mくらいあれば良い。しかしその厚さは、やはり3m必要である。それは、内部を外敵から防ぐためではなく、むしろあなたが決して外を見ることがないためのものである。もしあなたが、背伸びをしたり、余計な冒険心を抱かなければ、それは聖なるものを俗なるものから分離する堅固な砦となるのである。

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