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2007/03/19

義という凶器

彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。(使途9:4より)

 パウロは、諸教会へ宛てた書簡の中で、自分が律法において落ち度のないものであったと書いている。そのように彼は神の前に義なる人間であった。しかし、それでも彼は、自分が神の前に義とされるような完全な人間でないことは自覚していただろう。そして、そのことがまた、神の前に彼を正しい者としていたのである。そのように、彼は何重にも周到に自分の義の上塗りをしていたのであり、それはまた神に喜ばれることでもあったのである。
 今日においてもこのパウロのような人が存在する。神に祈りを捧げ、神の奇跡を神じ、神に忠誠を誓い、真実を尽くし、正直に生き、忠実に行動する人がいる。彼は神に喜ばれる存在であるゆえに、神は彼の願いを聞き入れてくださる。彼には奇跡が伴い、彼が祈ると病人も癒される。
 ああしかし、まさにそのことのゆえに、神は彼を裁くことができないということを彼は知らない。たとえ彼が神の御心を行っていなくてもである。そうだ、まさにそのような状態の彼こそ、改心前のパウロその人に違いない。
 神は、パウロが神の御心を本当は行っておらず、その人生が神の前にすべて無駄であり、無に等しいということを知っておられながら、パウロを裁くことがおできにならずにおられた。それは、パウロの義が邪魔したのである。なぜなら、神は正しいお方であり、正しい者を裁くことがおできにならないのである。
 それゆえ、今日においても、義なる人生を生きながら、ただ神の御心を行うという一点において、それを成していない人間がいるなら、神はその人を裁くことがおできにならない。そして、その人の人生は、実を結ぶことがなく、神の前にまさに無そのものであるという悲惨が起こることになる。
 しかし、パウロの場合には、そればかりではなかった。彼はついに神の前に罪を犯すことになる。すなわち、罪のない人を迫害することを始めた。それは、パウロにとって、とげのある鞭を蹴ることであった。この段階に及んで、神には、初めてパウロを裁くことが可能となった。神は、どんなにこのときを待っておられたことだろう。神の愛は真実な愛であり、義なるパウロを愛し、待っておられたのである。そして言われた、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。とげのある鞭を蹴れば、足が痛いだけである」と。
 神はどこまでも正しい、愛のお方なのである。だから、だからその愛なる神の前に、自分の義を立てようとする者の罪はどのように大きいか。それは、神にも裁くことのおできにならない罪なのだ。この罪を除き去ることのできるものはただ永遠だけだ。神は、愛の神であるゆえに、この永遠の力を借りて、彼のかたくなさを裁かれ、彼を罪から解放されるのである。

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