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2007/02/26

選びと哀れみ

エゼキエル書 第35章

 神は、エドムに対して裁きを行われる。彼らがイスラエルの荒廃を喜びあざけったからである。イスラエルは、自らの罪により神の怒りを買い、二度目のバビロン補囚という最終的とも言える裁きをその身に招くことになった。しかし、たとえそれがイスラエル自身が犯した罪の結果であり、エドムの攻撃により引き起こされたものではないとしても、神はエドムがイスラエルをあざけるのを容認されない。それは、イスラエルが神の愛されるご自身が創造した選びの民であるからだ。
 神はかつて、長男エサウよりもヤコブを選び、彼に祝福と守りを注がれた。その召しは変わることがない。エサウはエドムであり、ヤコブはイスラエルである。これは、神の気まぐれではなく、永遠のご計画なのである。
 ヤコブはエサウをだまし、彼の長子としての祝福を盗んだ。それゆえ人の目には、エサウの報復は正しいと見えるかもしれない。しかし肝心なのは、この世界を動かしているのは、ただ神のご計画だということである。それゆえに、イスラエルは祝福され、エドムは呪われる。これは、人の倫理ではあり得ないことだ。しかし神には倫理という概念は存在しない。それに対して人は、倫理というものを考えだし、それにより、この世界の物事の道理を定義し、それに従うことにより、この世界の秩序を確立し、自分の義を獲得しようとしたのであった。しかし人の作り出す秩序というものは、完全ではない。それは社会の全体で最適化されたものではない。実際にはそのような体系の生み出す矛盾の狭間に苦しむ人々が存在する。そして強い人、世渡りのうまい人だけが自分の義を打ち立て、その陰で昂然と私利をむさぼるようなことが許されることにもなる。
 このエゼキエルの時代のイスラエルもそうであり、それは神との関係からは決して出てこないものであった。それは、異境的なものであり、エドムに代表されるものである。神はそれを知っておられ、ここでエドムをきびしく裁いておられるのであり、それはエドムだけでなく、神に聞き従わないこの世の勢力すべてに対する裁きの警告なのである。
 しかし、神のエドムに対する裁きは、人間の成す業のように不完全なものではない。神は、実行される裁きにおいて、いつも一人一人の人間を見ておられるのであり、民族の罪により、その中に住む罪のない人をも不当に裁くということを神はなさらない。神はエドムを裁きながら、同時にそれを通して、エドム民族の一人一人をイスラエル民族の一人一人と対等に裁いておられるのであり、そこに神の義と哀れみが表されているのである。

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