« 2007年2月22日 | トップページ | 2007年2月26日 »

2007/02/23

神が立てられる牧者

エゼキエル書 第34章

 そのころイスラエルにも、また補囚でバビロンの地に連れ去られてきていた民の中にも、牧者の務めを果たせる者がいなかった。彼らは、牧者と呼ばれてはいたが、その務めを果たせなかった。それは彼らとても、そのおかれていたきびしい境遇の中で、自分の生活を維持するだけで精一杯だったのである。
 しかし神はエゼキエルを通して、そのような彼らを厳しく責められた。牧者には、自分を養う前に、まず羊のことを配慮することが要求されるのである。というのも、神の命令や啓示は、神からトップダウンで民に伝えられるが、恵みと哀れみは、末端の最下層にいる民から優先的に供給されるのである。
 このような神の要求に応えることのできる牧者は、どこにいるのだろうか。神はイスラエルの歴史の中に、このような牧者を輩出させられた。その代表は、ダビデである。ダビデは王であったが、同時に預言者であり、詩人であり、勇士であった。彼は神を愛し、神を第一にし、そして民を大切にした。かつて神の箱がペリシテ人に盗まれ、それが帰還したとき、ダビデは、神の民と共に神の箱の前で跳ね踊り、民の一人一人に輪形のパンを与えた。彼には、悪人たちでさえ聞き従った。彼は、自ら戦士の先頭に立って出入りし、敵を打ち破った。彼こそ、神が求めておられたイスラエルの牧者であった。しかし彼も、欠点の無い完全な牧者ではなかった。彼もまた、神の前に罪を犯してしまった。それは彼だけでなく、モーセやヨシュアも含めて、歴代の名高い牧者も、同様であり、すべて弱さを持っていた。神は彼らの弱さを認め、それを赦された。
 ああしかし、このときはもうダビデはいなかった。もはや、そのような良い牧者は現れることができなくなっていた。イスラエルの誇り高き歴史は、忘れ去られ、モラルは低下し、神との契約は、無に帰していたのであった。そしてついに、神がエゼキエルの口を通して預言しいたように、エルサレムは再度の攻撃を受けて陥落し、第二のバビロンが現実のものとなったのであった。
 しかし神はその後、何百年も後の定められたときに、ご自身の前に、完全な牧者を起こされた。彼は、人からではなく、神から出ており、神への完全な従順を身につけていた。そして最終的には、民のすべての罪の購いとして、ご自身の体を捧げられたのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年2月22日 | トップページ | 2007年2月26日 »