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2007/02/19

エゼキエル書 第30章

 エジプトに対する神の裁きは、非常に恐ろしいものとなる。神はこれまで、エジプトの罪をそのままにしておられたが、ついに裁きを実行しようとされるのである。
 神は、バビロンの王ネブカデネザルの腕を強くし、エジプトへ送られる。諸国は、この強大な国がこれまた強大な国エジプトへ攻め込むのを目の当たりに見るだろう。エジプトに組みし、これを助けようとする国は、エジプトと同じ運命となる。そのようにして、略奪が行われる。これは世の常なることであり、そのようにして国々は興亡し、歴史は展開してしてきた。
 しかしこのエジプトの敗退の原因はそのような世の常なるものとは異なる。これは神の御手なのであり、全能の神が行われる裁きなのである。エジプトにもたらされる速やかな荒廃を見て、諸国はそれがただごとでないことを知るだろう。すなわちそれが国と国の単なる争いではなく、神の裁きであるということを。そしてそれは、国々の語りぐさとなる。彼らは、嫌悪と畏れをもってそのことすなわち、エジプトに下った神の裁きを語り伝えることになる。神が語られたように、すなわち「彼らは、私が神であることを知るようになる」と。

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論述:離脱について

 神は人をご自身の似姿に創造された。私たちは、このことを良く心に刻む必要がある。というのは、もしこのことがなかったならば、私たちは神からの祝福を受けることはできないからである。「神はまことに天使たちを助けることをなさらず、アブラハムの子孫を助けられるのである。」と聖書は言っている。
 しかしこのことは、決してイエス・キリストの購いを不要とするようなものではなく、返って福音がそこへと向かうべきものなのである。すなわち、イエス・キリストの購いにより、旧約聖書の記述が必要なくなったのでもなく、また神がイエス・キリストにより、まったく新しい祝福を創り出されたのでもない。旧新約聖書は、アダムが失ってしまった祝福を奪還するための一貫した歴史なのである。
 このことを認め、深く心に刻むならば、私たちは、イエス・キリストにより救われた後に、自分が受けた祝福の意味をもう一度、旧約聖書から学び直す必要がある。そうでないと、私たちが受けた祝福の意味が分からなくなってしまうだろう。しかし、旧約聖書のどこに神が人に与えられた祝福の内容が書かれているだろうか。むしろ、創世記の第3章において、すでにアダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放されているのを見る。しかも第1章と第2章のほとんどは、神が天地万物を創造したことの経緯が書かれているのであり、アダムが受ける祝福の内容については、ほとんど記述されていないとも見られる。アダムがそれを享受する前に悪魔がそれを奪って行ってしまったからである。しかし、この祝福は、悪魔にはもともと受けることのできないものであった。なぜなら、悪魔は神の似姿に創造されたのではなかったから。神の似姿に創造され、神の祝福を受け継ぐことのできるのは、創造されたすべてのものの内の人間だけなのだ。
 神は、アダムとエバに罪の報酬としての罰を宣告し、エデンの園から追い出し、彼らが再びそこへ戻ることがないように、回る炎の剣を置いてエデンの園への道を閉ざされた。そして、長い長いイスラエル民族の歴史を経て、ご自身の一人子をこの地上に生まれさせ、完全なる救いを成し遂げられた。神は、このイスラエル民族の罪の歴史を通して、何を成し遂げようとされたのか。なぜ、イエス・キリストが生まれて来られるまでに、そのような気の遠くなるようなイスラエルの罪の歴史が必要だったのか。
 その答えは、唯一つ。すなわち、イスラエル民族の歴史こそが、神がアダムに与えようとされていた祝福を描写するものだったということである。そこに綴られている祝福と呪い、勝利と敗北、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、それらは、アダムが受けるはずであったが失ってしまった祝福を詳細に綴ったものだ。それはアダムの罪を受け継ぐ私たちに理解できる形で記されているのであり、もしアダムが受け継ぐ祝福がそのままの形で記されたなら、私たちにはそれが理解できなかったであろう。それは、天上のものだから、地に住む私たちには理解できない。
 しかし、私たちの前に今や、イエス・キリストを通して完全な救いが現れた。それは、アダムが受けるべきであった祝福をもう一度私たちにもたらすものである。それは、これまでのイスラエル民族の歴史を無意味にするものではなく、反対にそれを完成させるものである。私たちは、イエス・キリストにより、イスラエル民族の歴史のすべてを収穫するのであり、彼らが受けるべくして完全に受けられなかった哀れみ、力、勝利、祝福は、イエス・キリストにおいて、すべて完全な形で私たちのものとなるのだ。なぜ彼らはそれを完全な形で受けられなかったのか。彼らがその奪還の戦いにおいて、敗北してしまったからである。しかしイエス・キリストは、ユダ族の獅子として完全な勝利を得られた。だからイエス・キリストにおいて、私たちは、アブラハムの祝福、モーセの奇跡、ヨシュアの勝利、ダビデの従順、ソロモンの知恵、イザヤの洞察、ダニエルの夢、エゼキエルの幻、それらすべてを受け取ることになる。どのようにして、それは完成するのか。無となることによってである。イエス・キリストの前でこそ、イスラエル民族の歴史におけるすばらしい教訓は、無に解消されることができる。すべてがイエス・キリストを待ち望んでいたのであることが今や明らかになる。すべてがイエス・キリストの前で無に等しくなり、すべての栄光がイエス・キリストのものとなるのである。

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