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2007/02/14

説教21:「観想的生と活動的生について(ルカ10:38)」より

 聖書の中に出てくる有名な2人の女性マリアとマルタ。彼女等は、私たちの信仰生活の姿勢の2つのタイプを表現している。マリアは好奇心が強く、信仰的な事柄に熱中すると他の日常的なすべてを忘れてしまうほどそれに没頭してしまうタイプである。いっぽうマルタは、常に自分の成すべき役割を自覚し、その遂行に自分を捧げるタイプである。かつて主イエスがこの2人の女性の住む家を訪れられたとき、彼女らはそれぞれに自分の性分の通りに主イエスに応対し、主イエスもそれぞれに応じて彼女らを賞賛された。信仰者としてこの世界を生きるとき、私たちにはこのマリアとマルタの両方の姿勢が共に必要となる。すなわち、この世の様々な思い煩いから完全に離れて聖書のみことばに聞き入る姿勢と、日常的な自分の責任を神から与えられる知恵により的確に遂行する態度である。
 それにしても、私たちは、なぜこの世界に生きているのだろうか。それは、この世界を生きることにより神にめぐり合い、神を知り、信仰を試されることにより、より深く神を知り、神から造られた神の似姿としての自己、すなわち長子としてのキリストの姿に自らを変えられていくことである。
 その場合、まず私たちは、マリアがキリストの前に座り、み言葉に聞き入っていたようにこの世界の思いわずらいから開放されて、直接に神の御前に立つことが必要であり、次にそこで聞いた御言葉を実生活においてマルタのように実践し、その真の意味を体得することが必要となるのである。この二つのことは、一見矛盾するものであり、両立しないもののように思われる。しかし、実際はそうではなく、この二つの姿勢の融合こそ、キリストの受肉を通して、神が私たちに与えようとされている唯一の祝福なのである。
 「あなた方は、イエス・キリストを着なさい。」と聖パウロは言う。このキリストを着るとは、この世界を生きるために天からの油注ぎを受けることであり、信仰者がキリストの下にひざまずき、彼の主権を心に啓示され、最深の意味でキリストの僕となるときに与えられる、キリストとの新しい関係である。

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