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2007/02/12

説教20:「像を介さぬ認識について(エフェソ4:23)」より

 私たちは、常に信仰の刷新を必要としていると思う。もしあなたの信仰生活になにか喜びがなく、どこかマンネリ化したもののように思われるのなら、また過去に何度も同じ過ちを繰り返し、一度決心してもまた度々同じ結果に陥ってしまうようなことがあるとしたら、そんなあなたに欠けているのは、きっと信仰の刷新に違いない。
 信仰の刷新とはなにか。それは、主イエスを新しく知ることに他ならない。主イエスは、どのようなお方なのか。彼は、人と成られた神である。神が人と成られたことにより、私たちが受けた恵みは計り知れない。しかし、戸惑いもまた大きかったのである。それは、生まれながらの人には、決して理解できないことであり、その事実を受け取るには、聖霊の啓示が必要とされたのだ。そこで私たちがキリストを知っていると言うとき、どのようなお方として知っているかが問題となる。
 まず私たちはキリストを、人生を楽しく生きるためのアドバイザーのように知るべきではないだろう。私たちの人生はもはや自分のものではなく、キリストのものだからである。また、この世の友のように知るべきでもない。あなたはキリストの僕であり、キリストは、あなたと対等の存在ではないから。さらに、一人の偉人として知るべきでもない。どのような偉人もキリストの権威とは比べものにならないからである。
 私たちは、かつてはキリストをそのように知っていたとしても、今後はもうそのような知り方はすまい。それでは私たちはキリストをどのようなお方として知るべきだろうか。私たちはキリストを、自分の内におられる「有って有るお方」として知る必要がある。このお方により、このお方のために全宇宙は創造された。このお方には始まりがなく終わりもなく、永遠に変わらないお方である。
 そのようなお方が人の内に住まうことができるために、神は人の内に聖なる幕屋を設けられた。そしてそこで永遠の礼拝が執り行われる。その礼拝がいよいよ始まるそのとき、あなたがどのようにして救われたかは、もはや問題とはならない。あなたがキリストに従ってどのように生きるかも問題ではない。あなたがキリストをどのように知っているかも、もはや問題ではない。問題なのは、ただキリストがこの宇宙でどのようなお方なのかということである。あなたは、このお方、あなたの主にして全宇宙の王であるお方をあなたのため息を持って礼拝し、その前にひざまずき、無に等しきものとなる。この礼拝においてあなたの成すべきことはただそれ以外にない。永遠に。

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