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2007/02/03

説教19:「三つの闇について(マタイ5:1)」より

 人の好みは、年齢により移り変わるものである。子供のころ嫌いだった、山葵や唐辛子等も大人になるとうれしいスパイスとなる。それは信仰においても言えるだろう。たとえば晩年を冷たい牢獄で過ごすことも、信仰の生涯を全力で走り通した勝利者としてのパウロにとっては、神の冷たい仕打ちとしてではなく、はるかな天国への憧れと究極の平安をしみじみ味わうのに、もっともふさわしい栄光の場所であったのかもしれない。
 初めてキリストを信じたとき、人は神の愛を感じる。それは、自分の罪の罰を身代わりに受けてくださった方の愛に表れている。しかしやがて彼は、この快い愛の影には、御子の死の苦しみがあったことを理解するだろう。そのお方は、また隣人を自分のように愛することを彼に命じられた。そして、その愛の命令を遂行するためには、ときには自分を犠牲にしなければならないことをまた理解し始める。
 信仰の光は、最初まばゆいばかりに輝いて人の心を照らす。しかし信仰生活の中で、やがて移り変わり、それはいぶし銀のような淡い光を放つようになる。光が弱まったのでも、価値が低下したのでもない。それは、新しい光、内面的な光であり、この世界の感覚ではとらえることのできない光である。
 天国は、どのようなところだろう。ある人は、それは黄金のように輝く街のようなところであり、きれいな川が流れ、みずみずしい植物がいつもおいしそうな実を結んでいるようなところだと言う。聖書には、「都の大通りは、すき通ったガラスのような純金であった。」(黙示22:21)と書かれている。ガラスは透明であり、見る角度によっては金のようには光を反射しない。また、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」
 天国が、闇だとしたら。それは、神を冒涜する言葉だろうか。ある韓国人といっしょに座って祈っていた。その人は、部屋の電気を暗くしてくれと言った。彼にとっては、神との交わりに、光が邪魔になるのだろう。本当に神のみを求める人、都よりも、純金よりも、きれいな景色よりも、おいしい食べ物よりも、ただただ、神とその一人子との交わりだけを求める人にとって、天国はそのようなところかもしれない。
 ここに3つの闇がある。1つ目は、キリストを愛するゆえに、この世界のすべての楽しみを捨てることである。第2は、キリストに従うゆえに、自分のすべての夢や考えを捨てることである。第3の闇は、キリストを得るために、自分の行ったことすべてを忘れ去ることである。

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