« 2007年1月30日 | トップページ | 2007年2月3日 »

2007/02/01

説教18:「無である神について(使徒9:8)」より

 クリスチャンを迫害しようとダマスコへ向かう途上でサウロは、天からのまぶしい光を浴びて地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼は起きあがり、目を開けたが何も見えなかった。
 パウロの目は、強い光により、盲目にされてしまった。神がそのようにされたのは、パウロが死んでしまわないためであったのだろう。神を見てなお生きていられるものはいないから。それゆえパウロは何も見なかった。しかし、彼の人生がそのときから永遠に変わってしまったことから、彼が何か決定的なことを体験したということもまた事実だろう。彼はいったい何を体験したのだろうか。
 パウロは、神を見ずして神を見たのであった。つまり無の中に神を見たのだ。この地上で人が神を見るのは、この形態をおいて他にない。彼は、自分の人生のすべて、知力、知性、感情、意志のすべてを尽くして神を愛してきた。しかしいま、超自然的な力が彼を打ち倒し、彼のそれまでの人生が全面的に否定されてしまった。彼にはもう何も残っていなかった。まったく何も。しかし、そのとき聞こえた声の主は彼の名前を「サウロ、サウロ」と2度呼んだ。それは、彼が今までに体験したことのないような愛のこもった響きであった。それは彼に、すべてを超えた大きな存在が、彼のそれまでの人生を全面的に否定しながら、同時に彼サウロの存在を全面的に肯定していることを教えた。彼は祈りの中で、それまでの彼自身を捨て、この大きな存在に完全に従うならば、彼の人生はまったく新しく、暗いところがなくなることを悟った。
 しかし、今のサウロにとって、完全に従うとは、まずもって、自分を完全に捨てることでしかない。それが彼に可能な唯一のことであった。彼がそれまで学び獲得してきたことをもって神に仕えることはできないばかりか、そもそも彼の神概念自体が根底から変革されざるを得なかったのである。それゆえ主イエスはサウロに言われた、「立って、まっすぐという通りに出て行きなさい。そこであなたの成すべきことが告げられるだろう。」
 かくてサウロは、神を見ずして神を見たのであり、彼がそのようにして神を見たとき、彼にとって、すべてのものは無に等しい、糞土のようなものになったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年1月30日 | トップページ | 2007年2月3日 »