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2007/01/30

説教17:「三つの内なる貧しさについて(マタイ5:3)」より

 「心の貧しい人々は幸いである。天国は彼らのものだから。」主イエスはこの言葉で、弟子たちを励まし、その信仰の刷新を意図しておられるのである。
 信仰の刷新、それは神に徹底的に信頼し、従い、ただ神のみを求め、神の栄光だけを追求する信仰への到達を意志することである。この主イエスの誘いに応答して、私たちはまず自分の信仰を吟味してみる必要がある。
 そもそも人が神に従うという場合にも、従う主体は彼その人なのであり、そこに彼の意志や判断が介入せざるを得ない。そこで、彼が自分の意志で神に従おうと欲する限り、彼は不自由に成らざるを得ない。もし、彼が真に自由に、喜んで神の意志を満たすことを意志しようとするならば、神に従おうとする彼の意志はむしろ障害とさえなるだろう。むしろ方向性としては、神の意志が彼の意志となることが必要であり、彼の自由意志は神の御心の前に最終的には消滅すべきものなのである。
 しかしこの方向性は、彼の存在自体が消滅するような方向ではあり得ない。むしろそれは驚くべきことに、神が彼の存在の前に消滅する方向性なのである。どのようにして彼の前から神が消滅するのだろうか。彼が神に完全に自分を明け渡し、もはや彼の中に神の意志ではないところがなくなったとき、そのとき彼には神が見えなくなるだろう。すなわち彼の前から神が消滅するのである。だから、彼の目指すべき方向は、神の意志を見たそうと意志する方向ではなく、神から解放されるような方向なのである。
 同様に彼が神を真に知るということは、彼が神を知覚する方向ではなく、その反対に神を知覚しなくなる方向なのである。
 最後に、彼が神を持つということも、反対に神を捨てるという方向性となるのである。なぜなら、神が本当に彼のものになったなら、すなわち彼が本当に神のものになったなら、彼はもはや神を捜し求めたりはしないだろうし、そのとき彼は神を得ようとする衝動から徹底的に解放されてあるはずだからである。

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説教16:「魂の内にある火花について(ある師の言葉について)」より

 この宇宙を動かしている力について。一つの大きな力は、万有引力である。これは、地上において私たちが見いだす、もっとも小さな力である。たとえば、この力が人と人との間に働くのを感じ取ることのできる人がいるだろうか。しかしこの小さな力が、距離を超えて働くと、最後には星を動かす最も大きな力となる。しかしこの力を生み出すのは、巨大なモーターなどではなく、質量という不動性なのであり、そのようにこの世界は、不動なものによって動かされているのである。
 自ら不動なものがいかにして動きを生み出すのか。それは、それら不動なものの間の違いによるのであり、全宇宙のすべてがかく動くべく、神はすべてをそのように創造されたのである。
 しかしまた、この全体系における、もっとも大きな流れを生み出す力は、同等性なのであり、神はそのように人をご自身に似せて創造されたのである。そこで人は万物の内で、神からもっとも大きな力と恵みを受け取る存在なのであり、この享受は、私たちと神の差異が消失するまで、すなわち永遠に続くのである。
 神は、自ら人と成られようと決意されるほど、私たちをご自身に限りなく似せて創造された。それゆえ、私たちは、一見神のご性質を余すところなく備えている。たとえば新しいものを創造するという能力でさえ、心の中にではあるが備えている。それら能力の中で、最も注目すべきは、「生む」という能力である。
 マリヤが神を生んだのは(正確には、生むという役割を遂行できたのは)、この力によるのであり、私たちがキリストを心に宿すのもこの力による。そのとき、神は実に力ない嬰児のように私たちに抱かれ、日常生活において私たちの保護のもとに置かれる。神がそれを良しとされるのは、そのことにより私たちが、初めて真に神を知るということを得るからであり、それにより、真に神の友となり、この全宇宙を神から相続するためなのである。

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