説教17:「三つの内なる貧しさについて(マタイ5:3)」より
「心の貧しい人々は幸いである。天国は彼らのものだから。」主イエスはこの言葉で、弟子たちを励まし、その信仰の刷新を意図しておられるのである。
信仰の刷新、それは神に徹底的に信頼し、従い、ただ神のみを求め、神の栄光だけを追求する信仰への到達を意志することである。この主イエスの誘いに応答して、私たちはまず自分の信仰を吟味してみる必要がある。
そもそも人が神に従うという場合にも、従う主体は彼その人なのであり、そこに彼の意志や判断が介入せざるを得ない。そこで、彼が自分の意志で神に従おうと欲する限り、彼は不自由に成らざるを得ない。もし、彼が真に自由に、喜んで神の意志を満たすことを意志しようとするならば、神に従おうとする彼の意志はむしろ障害とさえなるだろう。むしろ方向性としては、神の意志が彼の意志となることが必要であり、彼の自由意志は神の御心の前に最終的には消滅すべきものなのである。
しかしこの方向性は、彼の存在自体が消滅するような方向ではあり得ない。むしろそれは驚くべきことに、神が彼の存在の前に消滅する方向性なのである。どのようにして彼の前から神が消滅するのだろうか。彼が神に完全に自分を明け渡し、もはや彼の中に神の意志ではないところがなくなったとき、そのとき彼には神が見えなくなるだろう。すなわち彼の前から神が消滅するのである。だから、彼の目指すべき方向は、神の意志を見たそうと意志する方向ではなく、神から解放されるような方向なのである。
同様に彼が神を真に知るということは、彼が神を知覚する方向ではなく、その反対に神を知覚しなくなる方向なのである。
最後に、彼が神を持つということも、反対に神を捨てるという方向性となるのである。なぜなら、神が本当に彼のものになったなら、すなわち彼が本当に神のものになったなら、彼はもはや神を捜し求めたりはしないだろうし、そのとき彼は神を得ようとする衝動から徹底的に解放されてあるはずだからである。
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