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2007/01/29

説教15:「神が魂の内に子を生むということについて(ルカ7:14)」より

 「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と主イエスは言われる。この「若者」とは知性であり、神は人の知性に向かって語り掛けられる。なぜなら、神が語られるときにそれを認識できるのは、感覚でも感性でも意志でもなく、知性だからである。主イエスは、なぜ若者に語り掛けられたのか。彼が死んでいたからであり、主イエスが語りかけられたとき、彼は生きて起き上がったのであった。
 ああ、もし、私たちクリスチャンの信仰生活が、森の中を手探りで進むようなものであったとしたら。救われてから何十年も欠かさず日曜日には教会に通い、牧師のメッセージを聞き、信徒の交わりや勉強会等によって育まれ、様々な信仰書を読み、自分なりの考えを持ち、家族に信仰を継承し、なに不自由のない生活をしていたとしても、「神との関係」というこの一点に関しては、本当は死んでいるも同然であるとしたら。また、キリストの十字架上の死が、自分のためであったことを告白し、永遠の命を与えられ、天国が保障されていたとしても、この毎日の瞬間々々を神と共に生き、神の御心を最優先させるということがまだなされていないということが、もしあるとしたら。そしてそのようなことは、生身の人間には、不可能であり、それはこの地上の人生ではなく、天国において実現するようなことであると暗黙の内に信じ、決して日のあたらない心の奥底に片付けてしまっているというようなことがあるとしたらどうだろう。
 そのときには、何かが、何事かがなされなければならない。すなわち、キリストがあなたの寝ているその棺おけに歩み寄り、あなたの知性に向かって、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と語り掛けられる必要がある。どうしたらそのことが可能となるのであろうか。どうしたらではない。語り掛けられるのは、キリストであり、だれに語りかけられるかは、神の主権に関わることなのである。しかし、これを読んでいるあなたが、もし心に迫られることがあるなら、そのときキリストがあなたに歩み寄り、語りかけられているのかもしれない。ちょうど祭司でありながら放縦を繰り返していたころのアウグスティヌスに向かって、神が歩み寄り、聖書を示して「取りて読め!」と言われたように。そのことが起こるのは、永遠の昔から計画されていたことなのだ。
 キリストは、そのようにあなたに声を掛けられたあと、次に何をされるのだろうか。それが実は、それでおしまいなのである。キリストが成されることは、実にあなたに向かって、「起きよ」と言うことだけなのだ。あなたの魂は、その言葉を永遠に待っていたのである。あなたに必要だった、たった一つのことは、このキリストの「起きよ」の言葉だったのだから。そして、そのときからあなたの人生は、永遠に変わってしまう。あなたが変わるのではない、キリストが変わるのでもない、あなたとキリストの関係が変わるのだ。そして、永遠に、永遠に、あなたはキリストと共にいるだろう。

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