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2007/01/26

説教13:「捨て去るということの意味について(ヨハネ15:16)」より

 主イエスは、「私の愛の内に留まりなさい」と言われる。さてキリストを愛するとは、自分を捨てることにほかならない。そして自分を捨てるとは、すべてを諦めることである。
 人は、自分の人生の目的がいかに高いものであっても、人を愛する故に、それを易々と捨てることができなくてはならない。それが、キリストの愛であり、私たちにもそれが要求されているのである。そのように純粋な愛には、理由や目的というものがなく、自分の目的を捨てて純粋に相手のことのみを考えて行為するのである。
 しかしそのようにすべてを捨て去ったとき、彼には何が残されるだろうか。見よ、そのとき彼に残されるのは「彼」であり、この彼自身が消滅してしまうことはあり得ない。しかしその「彼」は、彼からこの世界で彼を認識するための特徴のすべてをそぎ取った「彼」である。そしてそれは、神が永遠の昔に創造しようと計画し、キリストにあって全てを与えようと計画された「彼」なのである。
 この領域に至っては、捨て去るということは、何の損失でもなく、もはや彼は、神から何一つ期待することもない。なぜなら、彼がすべてを捨てることが神を純粋に愛することなのであり、神のためにすべてを捨て去った彼は、超自然的かつ自動的に、神がすべてを与える対象としての彼に回帰することになるからである。キリストの死と復活がそのことを保証しているのである。

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説教12:「自分自身を脱ぎ捨てるということについて(ローマ13:14)」より

 「だれでも、私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、それから私に従って来なさい。」と主イエスは言われた。この「自分を捨て」とは、「時間の中で培ってきたあなたというものを捨てて」という意味であり、つまり「あなたが死ぬときに持って行けないようなものすべてを捨てて」という意味である。それならば、私がこの世界に生を受けた意味は何であろうか。
 聖書には一貫して、元のところへ戻るというモチーフが描かれている。ヤコブは、父イサクの家を出て、遠い親戚のところへ行き、再び故郷へ戻って来た。イスラエルの民は、そこから飢饉を避けてエジプトに移住し、その地で増え広がったが、モーセとヨシュアに率いられて約束の地へ帰り来たった。放蕩息子は、父から財産をもらって旅に出たが、改心して再び父の元へ戻って来た。キリストは、天から降り、人と成り、十字架で罪の購いを成し終えて、天に帰って行った。これらのことは、何を語っているのだろうか。
 キリストは、「私が自分の命を捨てるのは、再びそれを受けるためである」と言われた。また「私のためにすべてを捨てる者は、その百倍を受ける」と言われた。これらから言えることは、捨てるのは再び受けるためであるということである。同様に、出てきたのは、再び帰るためである。なぜそのような無駄をするのか。無駄ではなく、受ける為にはその前に一度捨てる必要があり、実際に私たちはすべてを失ってしまったのである。
 失ったものは、再び取り戻されるべきであり、出て来てしまったところへは、再び帰るべきである。この失うということと受けるということ、そして、出るということと入ということ。これらは、繰り返し行われてきたのであり、これからもそのようであろう。しかし、それらはこの有限の世界における営みなのであり、永遠の世界においては、これらは一つのことである。すなわち、私たちは、この有限の世界の中へ、神のもとから流れ出ると同時に、また永遠の世界においては、神の内に留まり続けているのである。
 すなわち、出ると入るとは、この有限の世界における運動であるが、かの無限なる世界、永遠の世界においては、それらは一つのことであり、私たちは太古の昔から神と共にあったのであり、今後永遠に神と共にあるのである。そればかりでなく、私たちはこの有限の世界において、それらを一つのものとして認識することが可能なのであり、そのような認識へと招かれているのである。
 それが、私たちの主イエス・キリストの福音なのである。

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