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2007/01/23

説教10:「一なる神について(エフェソ4:6)」より

 人は、常に向上を目指す。しかし向上とは、どのようなであるべきであろうか。
 人は、常に自己を開拓して行くものだ。そして、開拓の可能性は、無限にあるように思われる。様々な学問の領域において、その時々に種々なる課題が発生し、それへの対応が必要となる。そして、個人はその解決のための貢献を要請される。この貢献の中に自己実現の要素があり、それにより自己は、自らの向上を獲得すると信じられている面がある。
 そのように個人の資質を含めた全人格の向上の方向性は、非常に多様であり得るのであり、一概に一般的な方向性などは提示され得ないとも考えられる。しかし、聖書は言う。新しいと見えるものも、すでに過去にあったものであり、実際は人生には新しいものなど何もないと。その時代時代における種々の課題は、本質的には、過去に提起されたものであり、それが時代の変遷に伴い、異なるように見える形で、再提起されているに過ぎないのかもしれない。例えば、環境破壊の問題は、時代と共にその規模が拡大されているのだが、人の住む環境には、昔からつき物であったであろうし、また大規模なものは、火山による環境汚染等、太古から存在するものでもあろう。そればかりか、戦争、犯罪、自殺等、重要な課題については、時代の進歩に対して、何の改善も与えられていないばかりか、時代を追って、新たな課題が噴出してきつつあり、現代社会の病理の中に、人はなすすべがないような状況とも言える。
 以上の状況を裏返して解釈すると、人の向上というものが、実は多様なものなどではなく、ある一つの方向性を与えられるべきものであるとの観測の余地が生まれる。そして、過去における上記のような様々な根本的問題の解決に対するすべての試みが失敗に終わっていることを思うとき、この新しい視点が無視できないものであることが理解される。
 「一なる神」聖書は、それが存在し、この一なる神がすべてを創造し、すべてを動かしていると主張する。そして、人の人生もこの一なる神の御心に沿って解釈されるべきであると提起する。それは、この一なる神に従った多様な発展というものでもなく、あくまでこの一なる神に従った一なる発展なのである。そして、この一なる方向性における前進が向上と言われるものなのである。
 しかしそれは、一なる方向への一なる動きでありながら、その要素においては、非常に多様なものでありうる。それは、この世界を見れば理解される。神は、この世界を一なる言葉により創造され、一なる御心で動かしておられる。一であること、それは多様なものが一なる方向性に向かって、多様な協力により進むことを意味しているのである。

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