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2007/01/19

説教8:「神のために神を捨て去るということについて(集会の書24:30)」より

 キリストによれば、人が神に近づく最善の方法は、自分を捨て、日々自分の十字架を負って彼に従うことである。それはすなわち、この世界において自分が持っているものをすべて捨て去り、それを二度と顧みないことに他ならない。キリストも「手を鍬に掛けてから後ろを見る者は、私にふさわしくない」と言われた。しかし、私たちがそのようにすべてを捨て去って行くとき、一抹の不安に襲われるかもしれない。それは、信仰生活に有用な、あるいは必要な何かをも一緒に捨て去ってしまうのではないかとの不安である。しかしその心配は無用である。
 というのは、私に必要なものはすべて、私が創造された当初から私の元にあり、私はそれから何かを取り去ることも、またそれに何かを付け加えることもできないからだ。創造された一切のものは無である。だから、私に必要なことは、ただ捨て去ることのみである。捨て去ることにおける危険性は、捨て去る過程における、残っているものの悪さによる。しかし純粋に全てを捨て去るのならそのこと自体が害を及ぼすということはない。というのは、それはすなわちこの世界に死ぬということだからだ。そしてそれは、霊的な世界に新しく生まれるということなのだ。そして、そのように全てを捨て去るということは、私がそれまで頼みとしていたものから私が解放され、神のみを頼りにするようになることであり、結局私の神概念が変革されるということに他ならない。
 神概念はどこまで洗練され得るのか。それは「捨て去る」という行為が究極に達したとき、つまり私が私として神を把握しているところのその根本的な概念を支えているものさえも捨て去るのかどうかという段階に到達したときに問題となってくる。しかし実はこの最後に残った神概念こそが取り払われなければならないものだったのである。使徒パウロは、自分の同胞のためなら自分が呪われてキリストから離されても厭わないと言った。またキリストは、「我が神、我が神、何故に我を見捨て給いしか」と言われた。これらのことは、捨て去ることが究極的に自己の神概念の突破にも及び得ることの証しであり、かつそれが私の目標であり、理想であることを提示している。
 しかし自己の神概念の突破は、何を意味し、私に何をもたらすのだろうか。それは、それまで自分の目と心で把握していた神を、今度は超自然的な仕方により把握するということであり、神の目で神を見、神の目で自分と万物を見ることにほかならない。それは私が、自分が真に神の子であることを知り、その結果として、キリストを通して万物を相続することに他ならないのだ。

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